名前の呼べないいとこ(七、軽蔑)
水曜日の夜。
会社でミキオに会ったことを話すと、璃久はかなり驚いた様子だった。
そして、興奮してうきうきとよくしゃべった。
「やっぱりさくらちゃんのペンダントの魔法かしら?ついこの間、姉さんからミキオちゃんのことを聞いて二人で話したばかりじゃないの。それで?ミキオちゃんのパールってどんなふうなの?あの子らしい繊細な感じなの?近いうちに見せてもらいたいわ。
私は昔からあの子がとても好きなのよ、小さい頃から面白いところがあったの。それに根がきっと優しいからああいう綺麗なものに惹かれるのね、香月ちゃんが一緒に暮らしたいって思うのはよくわかるわ」
璃久がぺらぺらと話すのを聞いて、さくらは笑いながら『サクサク』の話や『大沢香月の甥』の話をしたが、璃久はそれをさらっと流して心配そうに、そしてひどく不安そうにこう訊ねてきた。
「あの子は……私達のことをまだ知らなかった?それとも、何か心配していた感じだった?姉さんからまだ聞いてはいないと思うけど、さくらちゃん、明後日から一緒なんだからやっぱりちゃんと言っておかないとね。私も色々ちゃんとしないとって思っていたのよ。これはいい機会なんだわ」
璃久はしばらくむっつりと考え込んでいたが、しまいにこう言った。
「やっぱり機会をつくってミキオちゃんには……私が、私からちゃんと話すわ。もう落ち着いて来たんだし、しっかりしなくちゃだめよね。さくらちゃんは会社で一緒に過ごすんだから、少なくとも余計な心配をかけたり迷惑にならないよう気をつけるのよ」
さくらは『わかってる』と答えたが、今日佐倉に父親の話をしてしまったことや、ミキオから璃久や阿部の家のことを尋ねられてあんな言い方をしてしまったことを思い出し、ここで正直に話しておかなければと思った。
しかし、まだどうしてもそれをする気になれないさくらは、他の思い出すのに心地いい、楽しげな話だけを璃久に聞かせた。
「佐倉さんはあのペンダントが素敵だって言ってくれたのよ。ファンは二人だとも言ってたわ。私にイヤなことを言ってしまったので言いにくいけど、って」
「まあそう!そんなことを正直に言うなんて立派よ。よさそうな社長さんじゃないの。ねえ、あんなに悪口言ってたさくらちゃんは今どんな気持ち?いやらしい目つきのひどい社長なんでしょう?」
さくらは笑いながら『社長も社員のみんなも実に感じのいい人達だから、いじめられたりきつく当たられたりして辛い思いをすることはないと思う』と言って璃久を安心させてやった。
璃久は「そうよ、そうに違いないと思ったんだから」と上機嫌だった。
そうやってご機嫌な母親の様子に安心したさくらは、このへんで勇気を出して話さなくちゃ、と深呼吸をして、ついに例の失敗の告白に踏み切った。
――『父親はぴんぴんしているけど、一緒に暮らしたくないから母と二人だけで暮らしている』
と、ついこう言ってしまったと冗談まじりに軽い感じで。
すると、璃久はしんと黙り込み、冷たい表情でさくらを見つめた。
さくらはその表情にぞっとさせられ動けなくなってしまった。
そして、なんとかして心臓の高鳴りを抑え込もうと、一度深く息を吸った。
しかし収まるどころか外にまで飛び出していきそうな程に音が早くなっていくので堪らなくなり、まるで負け惜しみのようにこんな言葉を絞り出した。
「別に本当のことなんだから私平気よ。佐倉さんだってその気持ちがわかるって言ってたし」
すると璃久は大声でこう叫んだ。
「なんてことを言ったの!初めて行った日に、社長に向かって言うことじゃないでしょう。そんなことを言うなんて信じられないわ。恥ずかしくないの?きっと社長さんも呆れ返ってしまったはずよ。私もうそんな話聞きたくないわ!さくらちゃん、あなたもっと慎んで行動すべきじゃないの?お母さんは……あなたがそんなことを言うなんて恥ずかしくて本当に信じられないわ」
これを聞いてさくらは言葉に詰まった。
さくらは、璃久がこんなに怒るとは思っていなかった。
そして、まるでさくらを『恥ずかしいことをする呆れた人間だ』と、みなしたような目でじっと睨みつけてくるのを見ているうちにたまらなくなり、何も言わずに家を飛び出した。
璃久は「さくらちゃん!」と叫んで後を追おうとしたが、ものすごいスピードで走り出したさくらに追いつくことは出来なかった。
さくらは遠くで璃久が「お願い待って!」と何度も叫んでいる声を聞いたが、それが聞こえなくなる程遠くに走ってくるまで止まろうとはしなかった。
璃久はさくらが何も持たずに飛び出していったので、きっとこの辺りにいるに違いないと思って必死に探しまわった。
日曜日に二人で行った公園や喫茶店。商店街や並木道、大学のキャンパスの周りをぐるっとまわってみたりもした。
一時間以上探しまわって途方に暮れたが『もしかしたらもう家に戻っていて、鍵が閉まっているから入れないでいるかもしれない!』とひらめいて、ものすごいスピードでアパートまで走り、戻って来た。
しかし、アパートの近くで人目もはばからずさくらの名を叫んでみたが返事はなかった。
璃久は部屋に戻り、さくら宛のメモを書き、ドアに張りつけてからまた外に出た。
そして同じところをもう一度まわった後、隣の駅のほうまで歩いて行ってさくらの名を叫び続けた。
すると遠くで救急車のサイレンの音が鳴っているのが聞こえた。
璃久はぞっと寒気を感じ、がっくりとへたりこんでしまった。
それでも璃久は力を振り絞り、すぐに立ち上がって歩き出した。
――(とにかく家へ帰らなくては、何か連絡があったかもしれない!)
来た道をまた引き返しながら璃久は最悪のことを思った。
――(もしあの子を失ったら!)
踏切の音やトラックのクラクション。
大急ぎで乱暴に運転するタクシー、初心者マークのドライバー。
璃久にはその全てが、交通事故を引き起こして人を悲しみに陥れる元凶のように思えた。
路地裏を若い男達が集団で歩く姿を見た時は、大切な娘を集団で取り囲み、乱暴をする悪人が仮面をかぶって歩いているに違いないと思って、罪も無い彼らを睨みつけたりもした。
――(あの子にあんなものの言い方をして、なんてことを言ってしまったんだろう!あの子にはあんなふうにしてはいけなかった!どんなに悲しかっただろう……あんなに傷つきやすい気持ちの子を、今までずっと私のためだけに生きているような子を、なんて酷い言い方で傷つけてしまったんだろう!)
璃久は恐ろしい早さで歩き続け小さなアパートに戻ったが、やはりさくらの姿はなかった。
玄関のメモを剥がすと、璃久は顔を覆って泣き出した。
しかし一分も立たないうちに『自分は何をしているのか』とひとり言を言って立ち上がった。
しかしもう何が出来るというのだろう。
警察に電話することも考えたが、まだ七時すぎだったので相手にしてもらえるはずはない。
誰かに電話をして聞いてみようかと考えてアドレス帳を開いたが、一体誰に電話してなんと言えばいいのだろう?
――(母さんや姉さんに電話をして相談する?あの子に、偉そうに心配をかけるなと言っておいて!友達に電話をかけてあの子に恥をかかせる?)
璃久は『私には泣く資格もない』とつぶやいてまた座り込んでしまった。
数分そのまま動かずにいたのだろうが、やはり璃久は立ち上がった。
そして、警察に身元不明の事故などの連絡がないかどうか聞いてみようと受話器を取った。
璃久は自分を奮い立たせるように『とにかく、考えつくだけの全てのことをしなくては』と言って110のダイヤルを押そうとした。
その時――『お母さん』と小さな声を聞いた。
さくらは玄関で震えていた。
璃久は受話器を取り落としさくらに飛びついて泣き出した。
「お母さんがそこら中私を探しまわって事故に遭ったような気がしたの。さっき救急車の音を聞いたの。私、お母さんがいなくなったら、どうすればいいの?私のせいで!」
こう言ってさくらも泣き出した。
璃久が汗だくになっているのを見て、さくらはこの数時間の母の苦しみを思ったし、『あんなことを言ってごめんなさい』と言い続ける璃久は、ごめんなさいの言葉は何も口にできなかった。
さくらもまた『自分が恥知らずだった』と言い、泣きながら璃久に謝り続け、しばらく二人で泣いているうちに、辺りがあまりに静かなのに気がついて二人はどちらからともなく泣くのをやめた。
そして、しずかにそっと抱きしめ合った。
璃久はさっきのことには何もふれずに「食事に出かけましょう」と言ってさくらの手を取った。
さくらのほうは「お腹がすいたかもしれない」などと言って、何事もなかったかのように璃久の上着を取り母の肩にそっとかけた。
二人は静かに歩き、静かに店に入り、声を出さずに食事を終えた。
そして帰り道で、とうとうさくらが口を切った。
「私は、あの会社で他にもみっともないことをたくさんしてきたの。土曜日の面接では泣きそうになって!きっとごまかしきれなかったと思うわ。佐倉さんは私の姿を見て呆れたでしょうし、哀れに思ったはずよ。それにあの時はミキオちゃんもいたの。きっと今、思い出して恥ずかしく思ってるわ。自分のいとこのあんな姿を社長に見られたんだもの。佐倉さんは連絡先の家族欄に父親の名前がなかったから、自分も若い頃に両親を亡くしているから私もそうだと思った、って言ったの。私、もうあの人に怒ってたわけでもなかったのに酷いことを言ってしまったんだわ。親を亡くしたっていう人に向かって、自分の父親はぴんぴん生きてるって言ったんだから!それにね、みんなに阿部って呼ばないでくれって言ったのよ。こんなこと言うなんて信じられないでしょう?だから私はお母さんの言う通り恥知らずなのよ!」
さくらはすぐにはっ、とする。
そして言うのだ。
「聞くのもいやな話でしょう、もうこれ以上馬鹿なことを言ったりしないから許して欲しい。自分のこんな性格がどこから来たのかを考えると耐えられない」
最後には、絞り出すようにこれを言った。
「お母さんは私のこの性格を……すぐにカッとして怒り出す性格を、再認識してしまったね。お父さんのイヤな部分を思い起こしたでしょう?それともおばあちゃんのことを?今までずっと私を見てあの人達を思い出すことが多かった?恥ずかしいのに娘だからって笑って我慢してた?もしかして、責任感と愛情とでそれを見続けていこうと決心したの?」
さくらは声を震わせ言うべきことを絞り出した。でも、もう続けられなかった。
璃久はこれに驚き、ぞくっとして血の気が引いた。
「さくらちゃん一体何を言ってるの?お父さんのことなんか言い出して。私がそんなふうに……さくらちゃんを見てお父さんを思い出したりするわけないでしょう?どうしてそんなことを考えたの?私があんな酷いことを言ったから?さくらちゃんのどこにもお父さんのものは無いわ。あなたが怒りっぽいっていうんなら、それは私があなたに渡してしまったもののはずよ。私の、すぐにカッとなって、酷いことを言って、後悔しても意地になって―――」
璃久はこう言って胸を押さえた。
そしてさくらを見つめ、綺麗に編み込まれた髪を触ってこう続けた。
「私の、悪い部分を全てあなたに渡してしまったってことを言ってるの?意気地なしの、確かめることも振り返ることもしなかった私の!私のことを!」
璃久はわけもわからず言い続けたが、さくらの頬が涙に濡れているのを見てビクッとして、
「私がさくらちゃんを見て思い出すのは、お母さんのことを守ろうとしたり、信じようとしたり、私のためだけに頑張ってるようなそんなさくらちゃんの姿なの!それなのに許してね、酷いことを言って」
さくらは璃久の言葉にまた胸を刺され、わっと泣き出した。
「お母さんがカッとして怒り出したり、誰かに酷いことを言ったのなんて見たことがないよ!だからお母さんは私を見るのが嫌になることがあったはずよ」
すると璃久は真っすぐにさくらを見つめ、はっきりと言い切った。
「いいえ、私はひどい間違いを犯したことがあるの。そのために、何より大切な時間を簡単に捨ててしまったのよ。大切な時間だけじゃないの、自分の本当の気持や夢なんかも……それで、やけになったのよ」
さくらは璃久をじっと見つめ何かを言おうとしたのだが、璃久がそれをさせなかった。
璃久は今までに見たこともない程にせつなく美しい表情で、さくらから目をそらしたかと思うと不思議なことを言い出した。
――『どうして今になってこんな気持になるのかわからないけど、あなたを見ていたら思い出したの。私が大切な時間をなくしたあの時のことを。どうしてこんなに思い出すの?気がついたのに、きちんと立ち戻ってやり直そうとしなかった私を何かが責めているの?」
璃久はこう言って、いつかのようにさくらの手をぎゅっと握りしめた。
――『さくらちゃんには……私のこの子にだけは話しておきなさいってことなの?』
と、誰にともなくつぶやいた。
さくらは母が恐くなり、何度も「お母さん、お母さん」と呼びかけた。
しかし璃久はさくらが自分を呼ぶ声に気がつくまで、まるで、目には見えない誰かに話しかけるかのように何か他のものを見つめているようだった。
璃久の手を引き「早く家に帰ろう」と言うさくらに、璃久は優しい声で「そうね、二人の家に帰りましょう」と答える。
そしてまた、璃久はなにものかにこう問いかける。
――『そうしなさいってことでしょう?だから、さくらちゃん、いつか私の話を聞いてちょうだいね。そうしたほうがいいと思うわ。話したってもう仕方のないことだけど……こんなに思い出すのは、きっと誰かに話してけじめをつけなさいってことなんだわ!そうよね?私の本性を知ったらさくらちゃんをがっかりさせてしまうけど仕方ないわ、それは許してね。でも時間が必要なの、もう少し考えてみるからきっと聞いてちょうだいね」
さくらはただうなずいて、母だけでなく自分にもきっと時間が必要であることを知った。
多くの失敗や後悔に正面から向かい合い、新しい場所に挑まねばならないのだから。




