第七章 法廷の雌獅子——1529年、ブラックフライアーズ
1529年5月31日。ロンドン、ブラックフライアーズ教会。
この日、イングランドの歴史が、静かに、しかし確実に動き始めた。教会の大広間は、法廷として設えられていた。壁際には枢機卿たちが並び、中央には高い椅子が二つ置かれている。一つはヘンリー八世のため。もう一つは——キャサリン・オブ・アラゴンのためだった。
アンはその日、広間の奥に控えていた。彼女は黒いドレスをまとっていた。フランス仕込みの繊細なレースが襟を飾り、彼女の黒い瞳は一層深く見えた。彼女は一切の表情を消していた。心臓は激しく打っていたが、それを誰にも見せなかった。
広間に、ヘンリーが現れた。彼は金の刺繍が施された緋色の外套をまとい、堂々と歩いてくる。彼の目は鋭く、決意に満ちていた。
「国王陛下、ご着席ください。」
裁判長の声が響く。ヘンリーは自分の席に座った。彼の隣の席は、まだ空いている。
——その時、扉が開いた。
キャサリン・オブ・アラゴンが現れた。彼女は四十三歳だった。かつての美しさは衰えていた。繰り返される妊娠と流産が彼女の体を蝕み、顔には深いしわが刻まれていた。しかし——彼女の目は、まだ燃えていた。
彼女は緋色のベルベットのドレスをまとい、胸に金の十字架を下げていた。スペインの誇りを、その全身に漂わせている。彼女は歩いた。ゆっくりと、しかし確固たる足取りで。
「キャサリン王妃、ご着席を——」
「いえ。」
彼女はその場に立ったまま、裁判長を見据えた。声は澄んでいた。まるで、若い頃の彼女が戻ってきたかのように。
「私は、ここに座るために来たのではありません。私は——」
彼女はヘンリーを見た。彼は目をそらさなかった。しかし、その目にはわずかな揺らぎがあった。
「——私は、私の結婚の正当性を、この場で証明するために来たのです。」
広間がざわめいた。
「王妃殿下、法律に従い、お座りください。」
「法律? あなたたちが、私に法律を語るのですか?」
キャサリンは微笑んだ。それは優雅で、しかし鋭い刃のような微笑みだった。
「私は、神とローマ教皇の前で、この結婚を誓いました。それが——唯一の法律です。」
彼女はゆっくりと、ヘンリーの前に歩み寄った。
「あなたは、私の夫です。私は、あなたの妻です。この事実は、誰にも変えられない。」
「キャサリン——」
ヘンリーが口を開いた。彼の声はかすれていた。
「——私は、神の前に、この結婚が無効であることを証明する。」
「どのように?」
「あなたは、私の兄アーサーの妻だった。レビ記は——」
「レビ記。」
キャサリンは笑った。それは、嘲笑ではなく、悲しみを込めた笑いだった。
「あなたが、今になって聖書を持ち出すのですか。あなたは——かつて、ローマ教皇から特別許可を得て、私と結婚した。その許可は、レビ記の規定を無効にするものだった。それを、あなたは忘れたのですか?」
「教皇の許可は——」
「——有効です。神の前に。」
キャサリンは振り返り、広間にいるすべての者を見渡した。
「私は、あなたの兄アーサーと結婚しましたが、その結婚は完結しませんでした。私は処女でした。それは、スペインの使者も、イングランドの使者も、そして——あなた自身も、証明した事実です。」
彼女はヘンリーをまっすぐに見つめた。
「あなたは、私を愛し、私と結婚し、そして——今、私を捨てようとしている。それも、あなたの新しい愛のために。」
その言葉に、広間が凍りついた。誰もが、キャサリンが「アン・ブリン」を直接名指ししなかったことに、かえって重みを感じた。
「私は、この法廷を認めません。」
キャサリンは宣言した。
「この法廷は、イングランドの法廷であり、ローマの法廷ではありません。私の結婚を裁く権限は、教皇にのみあります。」
彼女はヘンリーの前に跪いた。その姿は、臣下としての礼よりも、むしろ——別れの挨拶のように見えた。
「あなたが、この法廷の判決を下すなら——私は、それを拒否します。私は、ただ一人、神の前でのみ、自分の立場を弁明するのです。」
彼女は立ち上がり、優雅に礼をした。そして——振り返らずに、広間を去った。
彼女の背中は、誰よりも高く、まっすぐだった。
アンはその背中を見送りながら、初めて——この女性を恐れた。
---
※
キャサリンが去った後、法廷は続いた。しかし、空気は重く、誰もが言葉を失っていた。
ヘンリーは黙っていた。彼の顔は硬直し、手はわずかに震えていた。彼は——キャサリンの言葉に、心を揺さぶられていた。彼女の「正しさ」に。
「……続行する。」
裁判長が声を絞り出した。しかし、誰もがわかっていた。この裁判は、すでに終わっていた。
アンはその夜、ヘンリーの部屋を訪れた。彼は窓辺に立ち、外の暗い庭を見つめていた。
「——陛下。」
「アンか。」
彼は振り返らなかった。彼女は彼の背後に立ち、そっと手を伸ばした。彼の肩に、触れた。
「……キャサリン王妃は、強かった。」
「ええ。彼女は——」
「——勝ったと思っている。だが、違う。」
ヘンリーは振り返った。その目には、怒りと、情熱と、そして——恐怖が混ざっていた。
「彼女は、自分の正しさを信じている。だが、私は——私の正しさを信じている。」
「陛下——」
「私は、離婚する。教皇が認めなくても——いや、教皇が拒否するなら、私は別の道を行く。」
アンはその言葉の意味を理解した。それは、彼女がずっと待っていた言葉だった。
「——どのような道でございますか。」
「イングランドに、独自の教会を創る。ローマに従わない教会を。」
アンは息を呑んだ。彼女は、その言葉の重みを、その瞬間完全に理解した。彼女は、ただの王妃になるのではない——彼女は、歴史を変える女になるのだ。
「……陛下は、本気で。」
「私は、本気だ。」
ヘンリーは彼女の手を握った。その力は強く、決意を感じさせた。
「私は、おまえを王妃にする。誰が何と言おうと。」
その夜、アンは自分の部屋に戻り、鏡の前で長い間、自分を見つめた。
彼女の目には、勝利の光が宿っていた。しかし——その奥に、かすかな影が浮かんでいた。キャサリンの背中。あの誇り高き背中。
「私は、彼女のようにはならない。」
彼女はそう自分に言い聞かせた。
「私は——私は、彼女のように、捨てられたりしない。」
その言葉は、彼女の未来への誓いだった。しかし、それは同時に——彼女の運命への呪いにもなった。
---
※
1529年、秋。
キャサリンは正式に、ヘンリーと別居することを命じられた。彼女はキンボルトン城へと移された。かつて彼女がアーサーと共に過ごしたウェールズとは別の、ロンドンから遠く離れた城だった。
「母上——」
メアリーは泣いた。彼女は十四歳になっていた。病弱で、痩せ細っていて、誰よりも母を必要としていた。
「メアリー、泣かないで。」
キャサリンは娘を抱きしめた。彼女の腕は、かつてよりも細くなっていた。しかし、その温もりは変わらなかった。
「あなたは、王女です。どんなことがあっても、誇りを失ってはいけません。」
「でも、父上は——」
「——あなたの父上は、今は迷っているのです。しかし、いつの日か——」
キャサリンはそこで言葉を止めた。彼女は、その「いつの日か」が来ることを、信じていた。しかし——その日は、彼女の生きている間には、来なかった。
「母上、私も一緒に行きます!」
「いけません。あなたは、ここに残るのよ。あなたは——この国の未来の女王になるかもしれない。」
「私が女王に……?」
「ええ。もし、神がそう望めば。」
キャサリンは、娘の額に口づけを落とした。
「あなたは、強くなりなさい。たとえ誰が何と言おうと。あなたは——」
彼女はその言葉を、もう一度繰り返した。
「——あなたは、私の誇りです。」
その日、キャサリン・オブ・アラゴンは、キンボルトン城へと旅立った。彼女は二度と、ロンドンの宮廷に戻ることはなかった。




