第六章 黒い瞳の魔女——1526年、グリニッジ宮殿
彼女が最初に王の目に留まったのは、舞踏会の最中だった。
1526年の春。グリニッジ宮殿の大広間は、ろうそくの光で満ちていた。金糸のタペストリーが壁を覆い、床は磨き上げられて鏡のように輝いている。貴族たちは絹とベルベットに身を包み、音楽に合わせて優雅に踊っていた。
アン・ブリンは、その輪の端に立っていた。彼女は踊らなかった。踊れるのに、あえて踊らなかった。彼女はただ、壁際に立ち、扇子で顔の半分を隠しながら、広間を見渡していた。
「アン、踊らないのか。」
声をかけてきたのは、若い貴族だった。彼は彼女に熱心に求愛していたが、アンはいつもほどほどにかわしていた。
「今日は、足が少し疲れておりますの。」
「ならば、座って——」
「結構です。ここで、皆様の舞をお見苦しにいたします。」
彼女は微笑んだ。その微笑みは、拒絶でありながら、相手を傷つけない完璧なものだった。彼女はフランス宮廷で、この技術を徹底的に磨いていた。
その時——広間の入り口が開いた。
「国王陛下、ご入場です!」
アンは顔を上げた。彼女の黒い瞳が、その男を捉えた。
ヘンリー八世。三十六歳。彼は背が高く、肩幅が広く、金褐色の髪を肩まで伸ばしていた。彼の存在感は、部屋の空気そのものを変えた。誰もが彼に注目し、彼はそれに慣れきった表情で歩いていく。
「アン、王だぞ。お辞儀を——」
「ええ、わかっています。」
彼女は優雅に礼をした。しかし、その目はしっかりと王を見つめていた。下を向かなかった。彼女は見つめた。彼の瞳を、真っ直ぐに。
ヘンリーが彼女の前を通り過ぎようとした時、彼は立ち止まった。
「——君は。」
彼の声が、低く響いた。アンは心臓が跳ねるのを感じた。しかし、彼女は動じなかった。
「アン・ブリンと申します。王妃殿下の侍女を務めております。」
「アン・ブリン……聞いたことがある。フランスから帰ってきた娘だな。」
「はい、陛下。」
「フランスでは、何を学んだ?」
「……踊りと、歌と、そして——」
彼女は一瞬、間を置いた。
「——人を魅了する方法を。」
ヘンリーはその言葉に、笑った。彼は楽しそうに笑った。その笑顔は、彼女が今まで見た誰よりも輝いていた。
「面白い娘だな。おまえ、踊れるのか。」
「ええ。」
「ならば、私と踊れ。」
彼は手を差し出した。周囲の貴族たちが息を呑んだ。王が自ら、一人の侍女にダンスを誘うなど、前代未聞のことだった。
アンは一瞬だけ迷った。しかし——彼女は微笑み、その手を取った。
「光栄でございます、陛下。」
彼らは踊った。音楽はゆっくりと流れ、二人の体はそれに合わせて動いた。アンは完璧に踊った。フランス式の優雅なステップ、流れるような腕の動き。ヘンリーはそのすべてを見ていた。
「おまえは——」
彼が彼女の耳元にささやいた。
「——美しい。だが、それ以上に、何かを持っているな。」
「何でございましょう。」
「……わからない。だが、それが私を惹きつける。」
アンは微笑んだ。その微笑みには、計算があった。
来た。
彼女はそう思った。この時を、彼女は待っていた。何年も待っていた。
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※
その夜、アンは自分の部屋に戻った。彼女は鏡の前に座り、自分の顔をじっと見つめた。
彼女の顔は、美しいとは言えなかった。肌は白くなく、瞳は濃い茶色(あるいは黒)、髪も黒に近い。背は高すぎる。当時の美人の条件——金髪碧眼、色白、小柄——とはまったく逆だった。
「あなたは、美しくない。」
母がかつてそう言った。残酷な真実だった。
「でも——あなたは、人を惹きつける力を持っている。それが何かはわからないけれど、あなたは持っている。」
その言葉を、彼女は信じていた。母は彼女の武器を見抜いていた。
アンは鏡の前で、一つ微笑んだ。
「あなたは、簡単に手に入らない女だ。」
彼女はそう自分に言い聞かせた。それが彼女の武器だった。彼女は決して、愛人にはならない。決して——王の一時の慰めにはならない。
彼女は王妃になる。あるいは——それに匹敵する何かに。
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※
それから数ヶ月、ヘンリーはアンを追いかけた。
手紙を送り、贈り物を届けさせ、舞踏会では必ず彼女を探した。彼の妻キャサリンは、すべてを見ていた。彼女は何も言わなかった。言えなかった。彼女はもう、王の心を掴むことができていなかった。
「アン。」
ある日、ヘンリーは彼女を呼び止めた。彼は彼女の手を握り、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「おまえを愛している。私の愛人になってくれ。」
「……陛下。」
アンはそっと手をほどいた。彼女の表情は穏やかだったが、そこには一切の譲歩がなかった。
「私は、あなたの愛人にはなれません。」
「なぜだ。おまえは私を——」
「愛しております。心の底から。だからこそ——」
彼女は一呼吸置いた。
「——私は、あなたの正式な妻になりたいのです。」
ヘンリーはその言葉に、言葉を失った。
「妻……おまえは、王妃になると言うのか。」
「ええ。私は——あなたの愛人に甘んじるような女ではありません。もし、あなたが私を本当に愛しているなら——」
彼女は彼の目を見つめた。
「——今の王妃を離縁し、私と結婚してください。」
その言葉は、ヘンリーの心に深く突き刺さった。彼は怒り、困惑し、そして——彼女への欲望をさらに強くした。
「おまえは……なんと大胆な。」
「私が大胆なのではなく、あなたの愛が本物かどうかを試しているのです。」
アンはそう言って、その場を去った。彼女の背中は、誇り高く、そして美しかった。
ヘンリーはその後ろ姿を見送りながら、決意した。
彼はこの女を手に入れる。どんな手段を使ってでも。
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※
しかし、彼女の前には、大きな壁があった。
キャサリン・オブ・アラゴン。スペイン王女。カトリック両王の娘。彼女は決して離婚に応じなかった。
「私は、あなたの正妻です。この結婚は神の前で誓われたものです。」
彼女はそう言って、一切譲らなかった。彼女の誇りは、アン・ブリンの野心と同じくらい強かった。
そして——もう一つの壁があった。
ローマ教皇。クレメンス七世。彼はキャサリンの甥である神聖ローマ皇帝カール五世の圧力に屈し、ヘンリーの離婚を認めなかった。
「なぜ、教皇は認めないんだ!」
ヘンリーは何度も叫んだ。彼の焦りは、宮廷全体に広がっていった。
その時、一人の男が彼の耳元でささやいた。
「陛下。教皇が認めないのであれば——教皇を無視すればよろしいのでは。」
その男の名は、トーマス・クランマー。後のカンタベリー大主教となる男だった。
「無視……だと?」
「ええ。イングランドには、イングランド独自の教会があっても——」
ヘンリーはその言葉の意味を、すぐには理解しなかった。
しかし——その言葉が、歴史を変えることになる。




