第2部 首のない女王——アン・ブリン 第五章 異国で育った娘——1501年〜1514年、フランドル
彼女は生まれた時から、目立たない子だった。
アン・ブリン——正確にはアン・ボレン。父トーマス・ボレンは、イングランドの下級貴族に過ぎなかった。ウィルトシャー伯という爵位はあったが、それは新しく与えられたもので、古い血筋ではなかった。母エリザベス・ハワードは、それなりの家柄だったが、それでも王室に連なるほどのものではなかった。
「アン、お前は何をしている。」
父の声がした。彼女はまだ五歳だった。
「蝶を捕まえています。」
「蝶? そんなものに何の価値がある。」
父は冷たく言い放った。彼はいつもそうだった。娘たちには価値を見出さない。娘たちは——政略の道具だ。
アンは蝶を逃がした。蝶は窓から飛び出し、庭の花々の間へ消えた。彼女はその蝶を、少し羨ましく思った。自由に飛び回れるあの蝶のように、彼女もどこか遠くへ行けたら——と。
「アン、聞いているのか。」
「はい、父上。」
「おまえはフランドルへ行く。マーガレット・オブ・オーストリア女大公の宮廷で、おまえは育てられる。」
「……フランドル。」
彼女はその言葉を繰り返した。遠い国。海の向こう。蝶が飛んでいけるような場所ではない。
「なぜ、私が?」
「おまえの姉は、もう嫁ぎ先が決まっている。おまえは——そのための予備だ。」
予備。
その言葉が、彼女の胸に小さな棘を刺した。
「わかりました。」
彼女はそう答えた。反論しなかった。反論しても無駄だということを、五歳の彼女はすでに知っていた。
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フランドル、マリンヌ宮殿。
マーガレット・オブ・オーストリア女大公の宮廷は、ヨーロッパで最も洗練された場所の一つだった。彼女自身、優れた教養と政治手腕を持つ女性で、その周囲には芸術家や学者、詩人たちが集まっていた。
アンは十一歳でこの宮廷に送られた。言葉は通じなかった。フラマン語もフランス語も、彼女は片言だった。しかし——彼女はすぐに適応した。
「アン、あなたは賢いわね。」
女大公がそう言った時、アンは十二歳になっていた。彼女はすでにフランス語を流暢に話し、ラテン語も読めるようになっていた。
「お褒めいただき、光栄です。」
「お世辞じゃないわ。あなたは——何かを吸収するのが早い。まるで、自分が生き残るために必要なことを、本能的に知っているみたいに。」
アンはその言葉を、深く胸に刻んだ。
生き残る——そう、彼女は生き残らなければならない。父は彼女を「予備」として送り出した。つまり、彼女はいつでも捨てられる存在だ。それならば——彼女は自分で自分の道を切り開くしかない。
「アン、あなたにはフランス語の才能がある。もっと学びなさい。そうすれば、いつかイングランドの宮廷でも——」
「——役立ちますか。」
「ええ、そうよ。」
アンは微笑んだ。その微笑みは、彼女がこれから磨く武器の最初の一振りだった。
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※
1514年、アンは十四歳になっていた。
彼女はマーガレット女大公の推薦で、フランス国王ルイ十二世の王妃になるメアリー・テューダー(ヘンリー八世の妹)の侍女として、イングランドからフランスへ渡った。
「あなたが、アン・ブリン?」
メアリーは彼女を一目見て、そう言った。彼女は美しかった。イングランドの王女としての気品と、若さの輝きを兼ね備えていた。
「はい、王妃殿下。」
「背が高いのね。それに——」
メアリーは彼女の顔をまじまじと見つめた。
「——目が、変わってるわね。黒いのかしら? それとも濃い茶色?」
「……どちらとも申し上げにくうございます。」
アンはそう答えた。彼女は自分の目が、人を惹きつけることを知っていた。母から受け継いだその瞳は、見る者に強い印象を残す。彼女はそれを武器にできると知っていた。
「おまえ、面白いわね。私のそばにいなさい。」
その一言で、アンの人生は大きく動き始めた。
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※
フランスの宮廷は、イングランドとはまったく違っていた。
優雅で、華やかで、そして——奔放だった。芸術や文学が愛され、恋愛が詩として語られた。女性たちは教養を武器にし、男性たちはそれを称賛した。アンはその空気にすぐに馴染んだ。
「アン、あなたのフランス語は完璧ね。」
「ありがとうございます、閣下。」
彼女が話しかけていたのは、フランス宮廷で最も影響力のある男の一人だった。彼は彼女の黒い瞳に魅了され、何度も彼女に詩を送った。
しかし、アンは決してその誘いに乗らなかった。彼女は微笑み、たわいもない会話を交わす。そして——その先には行かなかった。
「なぜ、私を受け入れないんだ。」
男が苛立った声で尋ねた。
「閣下、私は——」
アンは優雅に微笑んだ。
「——簡単に手に入る女ではありません。私は、もっと——」
彼女は一呼吸置いた。
「——価値のあるものと、自分を交換したいのです。」
その言葉が、彼女の信念だった。彼女は父に「予備」として売られた。それならば——彼女は最高値で自分を売る。それ以外に、生き残る道はなかった。
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※
1519年、アンは十九歳になっていた。
彼女はイングランドへ戻った。フランス宮廷での七年間は、彼女を一人の女性へと変えていた。洗練され、知的で、そして——危険な魅力を放つ女性に。
「アン、よく帰ってきた。」
父トーマス・ボレンが彼女を迎えた。彼の目には、娘に対する愛情よりも、計算が浮かんでいた。
「フランスでは、よく学んだようだな。」
「ええ、父上。」
「おまえは、これからイングランドの宮廷で働く。ヘンリー八世の妃——キャサリン・オブ・アラゴンの侍女として。」
「……キャサリン王妃。」
「そうだ。おまえは彼女に仕え、そして——」
父は声を潜めた。
「——王の目に留まるのだ。」
アンはその言葉を聞き、微かに笑った。
「……父上は、私をまた、道具として使うおつもりですか。」
「おまえは、娘だ。娘は父のために尽くすものだ。」
「…………わかりました。」
彼女はそう答えた。しかし、その胸の中では、別のことを考えていた。
父のためではない。自分のためだ。
私は——私は、この国で最も影響力のある女性になる。
たとえ、誰を踏みにじっても。
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1521年、アン・ブリンはキャサリン・オブ・アラゴンの侍女として、グリニッジ宮殿にやってきた。
彼女が最初に目にしたのは、王妃の孤独だった。キャサリンは微笑んでいたが、その目は悲しんでいた。彼女の隣には、幼いメアリー姫が立っている。
「あなたがアン・ブリン?」
キャサリンが彼女に声をかけた。その声は穏やかだった。
「はい、王妃殿下。この度は、お仕えできることを光栄に存じます。」
「フランスから帰ってきたのね。あなたは——」
キャサリンは彼女の目を見つめた。
「——何か、特別なものを感じるわ。」
アンはその言葉に、一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。王妃は、彼女の「本質」を見抜いたのだろうか。
「どうか、お気遣いなく。」
「いいえ、私はあなたに、期待しているの。イングランドの宮廷は——変わる時を迎えている。あなたのような若い女性が、それを変えるかもしれない。」
アンは深々と頭を下げた。
「私は——王妃殿下のお役に立ちます。」
しかし、その言葉は本心ではなかった。
彼女は王妃の役には立たない。彼女は——自分自身のために、ここにいるのだ。




