↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小説 六人の王妃と一人の女王——チューダー狂想曲  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/13

第三章 二度目の婚約——1509年、ロンドン

ヘンリー七世が死んだ。


1509年4月21日、リッチモンド宮殿で。彼は長い病の末、静かに息を引き取った。享年五十二歳。チューダー朝を建国した男は、戦いと策謀の生涯を終え、息子にその遺産を託した。


キャサリンはその知らせを、ロンドンの居室で受けた。彼女は長い間、窓の外を見つめていた。テムズ川が灰色の水をたたえ、曇り空を映している。


「……終わったのね。」


彼女はそうつぶやいた。その声には、安堵と、かすかな恐怖が混じっていた。


七年間。彼女はこの国で、未亡人として、放置され、軽んじられ、時に嘲笑されながら生きてきた。しかし——彼女は耐えた。耐え抜いた。その先に、ようやく扉が開かれたのだ。


彼女は手を伸ばし、机の上の聖書を手に取った。ページを開く。そこには彼女が長年折り目をつけた箇所があった。旧約聖書、ルツ記。


「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所へ私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」


キャサリンはその言葉を読み、胸の十字架を握りしめた。


「私は、この国に残る。そして——」


彼女の目に、炎のような光が宿った。


「——王妃になる。」


---


四日後、ヘンリー八世の戴冠式が行われた。


あのプロローグで描かれた、輝かしい祝祭の日。キャサリンはヘンリーの隣に座っていた。彼女のドレスは白銀のサテン、金糸の刺繍が光を反射する。頭には真珠とルビーのティアラ——スペインの母から譲り受けたものだった。


民衆が歓声を上げる。


「国王万歳!王妃万歳!」


キャサリンは微笑んだ。その微笑みは、七年間の孤独と忍耐の末にようやく咲いた花のようだった。彼女の隣で、ヘンリーもまた微笑んでいる。十八歳の若さが、彼の頬に血色をもたらしていた。


「キャサリン。」


ヘンリーが彼女の耳元にささやいた。


「あなたは、本当に美しい。今日のあなたが、一番美しい。」


彼女は顔を赤らめた。本物の赤らめだった。彼女はまだ少女の心を持っていた。たとえ二十四歳でも、七年の未亡人生活でも、彼女の心には純粋な部分が残っていた。


「……お世辞を言っているの?」


「本心だ。」


彼は彼女の手を握った。その手は、アーサーよりも大きく、温かく、力強かった。


「私は、あなたを幸せにする。約束する。」


キャサリンはその言葉を、魂の奥底まで刻み込んだ。


——この日、彼女は心から信じていた。この結婚は神の祝福であり、彼女の苦難はすべて、この日のためにあったのだと。


---


戴冠式の夜、ウェストミンスター宮殿で祝宴が開かれた。


長いテーブルには、イングランド中の貴族たちが集まっている。魚介のパイ、焼き鳥、果物の盛り合わせ——かつてキャサリンが孤独にパンとチーズを食べていた日々が、嘘のように華やかだった。


「王妃殿下、おめでとうございます。」


声をかけてきたのは、トーマス・ウルジーだった。まだ四十代の彼は、すでに国王の側近として頭角を現していた。肥満気味の体に、知的で鋭い目が光る。


「ありがとう、ウルジー卿。」


「七年間のご苦労は、報われましたな。」


「……ええ。」


彼女は微笑んだ。だが、その目はウルジーの瞳を真っ直ぐに見つめていた。彼女はこの男を評価していた。民の出でありながら、その才能で枢機卿にまで上り詰めた。彼は賢く、そして——危険だった。


「私は、これからのイングランドのために尽力いたします。」


「それは心強い。」


ウルジーは深々と頭を下げた。


「しかし、王妃殿下——」


彼は顔を上げ、声を潜めた。


「——男児のご誕生が、何よりも肝要でございます。」


その言葉は、キャサリンの心に刃のように突き刺さった。


「……わかっています。」


「国王陛下は、若く、強く、そして——」


ウルジーは一瞬、言葉を選んだ。


「——継承者を切望なさっております。」


キャサリンはうなずいた。彼女の手は、テーブルの下で微かに震えていたが、それを誰にも気づかせなかった。


「私は、その務めを果たします。」


---


その夜、キャサリンは一人、寝室で祈っていた。


結婚式から数時間しか経っていない。彼女はまだ処女だった——いや、アーサーとの結婚は「未完了」とされていたから、彼女はこの時まで、文字通りの処女だったのかもしれない。


「神よ——」


彼女の声は、ろうそくの炎のように揺れていた。


「私は、この国に子を産みます。多くの子を。そして——」


彼女は手を伸ばし、腹に触れた。そこにはまだ何もいない。けれど、彼女は確かに感じていた。新しい命の予感を。


「——必ず、男の子を。」


彼女は目を閉じた。


母イサベルの顔が浮かぶ。母もまた、多くの子を産んだ。女児も男児も。しかし、スペインの継承は問題なく行われた。母は「女王」として統治した。男の子がいなくても——いや、男の子がいても、彼女は自ら統治した。


キャサリンはそのことを知っていた。しかし、イングランドは違う。この国には女の王が立ったことがない。彼女自身も、母のように「女王として統治する」ことを許される立場ではない。彼女は王妃だ。つまり——王の子を産むことが、彼女の使命だった。


「私は、必ず——」


彼女はベッドの上で、眠りに落ちた。


そして、その夢の中で——彼女は見た。


美しい金髪の男の子が、彼女の腕の中にいる。彼は笑っている。その笑顔は、ヘンリーの若々しい笑顔と、アーサーの優しい眼差しを併せ持っていた。


「王子様……あなたが、この国の未来よ。」


彼女はそう言って、その子を抱きしめた。


その時、彼女は気づかなかった。


夢の中のその子が、イングランドの歴史に名を刻むことは決してないということを。


---


※


数週間後、キャサリンは妊娠した。


彼女は涙を流して喜んだ。ヘンリーもまた、彼女の腹に手を当て、何度も何度も「男の子だ」と繰り返した。医師も占星術師も、こぞって「王子であろう」と予言した。宮廷中が沸き立った。


しかし——その子は、女の子だった。


1510年1月31日、キャサリンは早産で女児を出産した。その子は生まれた時から弱く、数週間後に息を引き取った。


キャサリンはその子を抱きしめ、ただただ祈った。


「神よ……どうして……」


彼女は泣かなかった。もう涙は枯れていた。彼女はただ、その小さな命の重さを、両腕で感じていた。


「あなたは、天に召されたのね……」


彼女はそうつぶやき、その子の額に口づけを落とした。


ヘンリーはその時、部屋の外にいた。彼はキャサリンに声をかけることもなく、ただ黙って立ち去った。


彼の背中は、かつてキャサリンが初めて見たあの日よりも、どこか冷たく見えた。


キャサリンはそれを知っていた。知っていたけれど——彼女はまだ信じていた。


「次こそは、男の子を。」


彼女はそう自分に言い聞かせた。


しかし——歴史は、彼女の願いを叶えなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。