第3部 短き王妃——ジェーン・シーモア 第十章 白い薔薇——1536年、ホワイトホール
彼女の名は、ジェーン・シーモア。
二十八歳前後。イングランドの田舎貴族の娘。美しい、という評判ではなかった。色白で、金髪で、目は淡い色——当時好まれた条件は満たしていたが、誰の目も奪うような容姿ではない。宮廷という戦場において、それは弱点であり、同時に武器でもあった。
「ジェーン、あのアン・ブーリンを見ただろう。」
父ジョン・シーモア卿は、娘にそう耳打ちした。
「あの女は、口を開けば男を試すような女だった。だからこそ王を虜にし、だからこそ王に殺された。おまえは違う。おまえには、そんな真似はできまい。」
ジェーンは微笑んだだけだった。父にも、誰にも、自分の考えを見せるつもりはなかった。
沈黙は、彼女が生まれつき持っていた性質ではない。むしろ彼女は、姉たちより口数が少ないと言われて育つうちに、それを武器に変える術を覚えた女だった。何も言わない女は、何を考えているか読まれない。読まれない女は、油断されない。アンが饒舌で身を滅ぼしたのを間近で見てきた彼女には、それがよくわかっていた。
——彼女は、従順だったのではない。従順に見えることの価値を、誰よりも早く見抜いていたのだ。
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1536年1月7日。キンボルトン城で、キャサリン・オブ・アラゴンが息を引き取った。
宮廷にその知らせが届いた翌朝、ホワイトホールは異様な明るさに包まれていた。
ヘンリーは黄色の衣装を身にまとい、大広間に姿を現した。彼の傍らには、同じく黄色を纏ったアンがいた。幼いエリザベスが抱き上げられ、廷臣たちの前を練り歩く。楽団が音楽を奏で、杯が掲げられた。
「——めでたきかな! 我らの結婚を脅かす者は、もはやこの世におらぬ!」
誰かがそう声を上げ、広間はどっと沸いた。
ジェーンは、その熱気からわずかに距離を置いた柱の陰に立っていた。彼女は誰よりも冷静にその光景を見ていた。
*王妃だった女が死んで、この宮廷はこれほど喜べるのか。*
*ならば——次に喜ばれるのは、誰の死番だろう。*
彼女はその考えを、誰にも悟らせなかった。ただ、静かに、控えめに礼をして見せただけだった。
数か月後、宮廷の空気は再び変わりつつあった。アンへの視線に、以前とは違う棘が混じり始めていた。ジェーンは、その変化を誰よりも早く感じ取っていた。
「陛下、お茶をお持ちしました。」
「……ジェーンか。」
ヘンリーの目に、疲労の色があった。彼女はそれ以上何も言わず、ただ茶を差し出し、一礼して下がろうとした。
「待て。」
「……はい、陛下。」
「おまえは、何も聞かぬのだな。何も、求めぬのだな。」
「私に、求める資格などございません。」
その一言に、ヘンリーは束の間、口をつぐんだ。彼が長年、誰からも聞いたことのない類いの言葉だった。
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1536年5月19日、アン・ブーリンが処刑された。
その翌日にはもう、ヘンリーとジェーンの婚約が公にされていた。あまりの早さに、宮廷ですら眉をひそめる者がいた。そして5月30日、ホワイトホールの一室で、二人は内々に式を挙げた。証人はごくわずか。花もなく、祝砲もない、静かな結婚だった。
「ジェーン、おまえは——」
「私は、あなたにお仕えします。それだけです。」
彼女はそう答えた。愛しているとは言わなかった。それも計算だった。愛を口にすれば、いつか裏切りと引き換えにされる。彼女はそれを、目の前で証明した女の末路から学んでいた。
「おまえは、アンとは違う。」ヘンリーは彼女の手を取った。「おまえは、俺を裏切らぬ女だ。」
「私は、裏切りません。」
ジェーンは静かに頷いた。その胸の内で、彼女は誓っていた——ただし、それは忠誠の誓いというより、生き延びるための誓いだった。
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王妃となったジェーンは、アンとは対極の振る舞いを貫いた。華美なドレスを避け、大声で笑わず、政治向きの発言もしない。だがそれは、彼女に意志がなかったということではない。
その年の秋、彼女はメアリー——ヘンリーとキャサリンの間に生まれ、庶子の身分に落とされた王女——の宮廷への復帰を、静かにヘンリーに願い出た。
「陛下、メアリー様を宮廷にお戻しいただけませんか。」
「……おまえが、口を出すことか。」
「出過ぎたことは承知しております。ですが、あの方はあなたの娘です。」
ヘンリーはしばらく彼女を見つめ、やがて小さく折れた。メアリーは宮廷に戻ることを許された。ジェーンにとってそれは、初めて自分の意志を通した瞬間だった。
しかし、次はそうはいかなかった。
1536年秋、北イングランドで大規模な反乱——恩寵の巡礼——が起きた。修道院解散への抗議に端を発したこの蜂起は、瞬く間に数万人を巻き込んだ。ジェーンは膝をつき、ヘンリーに反乱者への恩赦を嘆願した。
「陛下、どうか彼らを——」
「黙れ。」
ヘンリーの声は、氷のように冷たかった。
「前の妻がどうなったか、忘れたわけではあるまい。おまえも、俺の政に口を出すつもりか。」
その一言で、ジェーンは完全に沈黙した。反乱は容赦なく鎮圧され、指導者たちは処刑された。彼女はそれ以降、二度と政治向きの発言をしなかった。それは屈服ではなく、あの一度の失敗から彼女が導き出した、次の生存戦略だった。
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1537年初め、ジェーンの懐妊が確認された。
「陛下、おめでとうございます! 王妃殿下はご懐妊です!」
ヘンリーは狂喜し、彼女の腹に幾度も口づけた。
「今度こそ——今度こそ、男だ!」
「ええ、陛下。」
ジェーンは微笑みながら、内心で静かに祈っていた。
*どうか、この子だけは。*
彼女はアンの末路をよく知っていた。だが彼女には、アンのような野心も、アンのような刃もなかった。ただ、この子が無事に生まれること——それだけを願っていた。
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1537年10月12日。ハンプトン・コート宮殿。
三日にわたる陣痛の末、ジェーンは男の子を産んだ。
「王子です! 王子でございます!」
その一報に、ヘンリーは涙を流した。
「……ついに……ついに俺は……」
その子はエドワードと名付けられた。ヘンリーの祖父の名を取ってのことだった。ロンドン中の鐘が鳴り、街は祝祭に沸いた。二十八年越しの祈りが、ようやく届いた瞬間だった。
だが——その祝祭の中心に、ジェーンの姿はなかった。
出産から数日後、彼女は高熱に苦しみ始めた。産後の感染症だった。当時それを止める術は、ほとんどなかった。
「陛下……」
かすれた声。ヘンリーが枕元に駆け寄る。
「ジェーン!」
「私の子は……」
「無事だ。男の子だ。おまえの子だ。」
「……よかった……」
彼女はかすかに微笑んだ。それが、彼女に残された最後の力だった。
「陛下、私は——」
「黙っていろ。医者を呼べ!」
「——私は、あなたにお仕えできて、よかった。」
それが、彼女の最期の言葉だった。
1537年10月24日、ジェーン・シーモアは死去した。二十九年に満たない生涯だった。
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ヘンリーは彼女の死を、深く悼んだ。少なくとも、表向きは。
彼女はウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂に埋葬された。ヘンリーは、いずれ自分もその隣に葬られるよう命じた。
「彼女こそ、俺の唯一の妻だ。」
彼はそう言った。誰も、その言葉に異を唱えなかった。反論する女は、もういなかったのだから。
宮廷はこぞって、ジェーンを「理想の王妃」として語り継いだ。物静かで、従順で、そして——男児を産んで死んだ女。だがその評価こそが、彼女が最も嫌ったものだったのかもしれない。彼女は無個性だったのではない。無個性であることを演じ、それによって、他の誰も手にできなかったものを手にした女だった。
しかし、その死者への愛惜もまた、長くは続かない。
ヘンリーの目は、すでに次の花嫁候補——大陸の肖像画の中の女——に向けられ始めていた。




