2—6:超音速アイドル・クロエ
扉のさきに広がっていたのは、午後の陽射しにきらめいているオーシャンビューだった。
ドラゴンハート湾のほぼ全域が視界に収まっていて、さほど遠くないところに、グランプリ予選コース終盤のランドマークである四色に塗りわけられた海上ポールが見える。
66階建ての一番上にあるこの部屋は、全長240メトラのあのポールよりいくらか高いところに位置するだろう。
摩天楼街の超々高層建築と比べると三割ていどの高さしかないけど、視界を妨げるほかの背の高い建物が海までのあいだにはないので、眺望は抜群だ。
とても個人宅の一部とは思えない広々とした部屋の真ん中で、タンクトップにハーフパンツという軽装の若い女性が、片手でトレーニングベンチのバーをつかみながら、ななめT字の体勢でバランスを取っていた。ピラティスってやつ?
体幹に負荷をかける姿勢はそのまま、部屋の主が口を開く。
「仕事が早いわね、アナ。あなた、優秀な官僚になれるわよ」
「人になにかをお願いする姿勢とは言い難いんじゃないの、クロエ。彼女はどこにでもいる理論術者とはちがう、余人をもって代えることなど不可能な人材よ」
てっきりアナスタシア嬢のお友だちだと思っていたので、いきなり交わされた舌鋒にわたしが戸惑っていると、クロエと呼ばれた女性がトレーニングベンチから離れてこっちへ歩み寄ってきた。
若さ頼りではない、鍛錬によって維持されている美ボディだ。トレーニング中だったので明るいオレンジ色の髪をシンプルに束ねているけど、シックにまとめることも、ゴージャスに展開することもできるだろう。眼は快晴の日の空のように青い。
挙措をあらため、クロエさんがわたしのほうへ優美に微笑む。
「あなたが魔女のペティカ=クルトさんね。私はクロエ・エレクトラ=ロン・エウロスともうします。折りいってクルトさんにご相談したいことがあって、アナスタシアに頼んでつれてきてもらったのよ」
「……アナさま?」
わたしはアナスタシア嬢のほうへ、疑問になっていない疑問をぶつけることになった。なんか、実像からかけ離れたわたしの評判が、上流階級の若い女性たちの中で広まっているような……。
アナスタシア嬢は、悪びれていない顔でのたまわれる。
「そんなに言いふらしたりはしていないわよ。わたくしが急にサンディアル殿下とよく会うようになったばかりか、エルミーラ嬢とも親しくなったものだから、秘訣はなにかってしつこく問い詰めてくる女が何人か、ね。こちら、そのおひとり」
つまり、わりと言いふらしたってことじゃないですか!
「わたしは恋愛トラブル担当の探偵ってわけじゃないですし、そもそもアナさまのご相談を解決するにあたって、心理術は一切使ってませんよ?」
そう、状況打開のために心理術を使ったのは間違いないことだけど、それはアナスタシア嬢とサンディアル殿下のあいだに隙間風を吹かせていた問題とは無関係だった。そもそも、そんな問題は最初からなかったのだから。
「まあ、ひとまず私の話を聞いてもらえないかしら? 私も、心理術を使ってほしくてあなたにきてもらったわけではないの」
クロエさんがそう言ったので、とりあえずお話だけはうかがうことにした。
黒塗りリムジンに乗せられる前にアナスタシア嬢が言っていたことと、クロエさんの顔とフルネームから、どういう用件なのかはなんとなく見えてきた気がする。クロエさんのことを、わたしは知っているのだ。しかも知ったのはつい最近。
だから、たしかに心理術を使う必要はなさそうなんだけど、べつの問題はありそう……。
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クロエさんはタンクトップにハーフパンツのラフな格好の上に一枚羽織ると、なぜか玄関のほうへと向かっていく。
「ごめんなさいね、お茶の用意がなくて」
「独り暮らしにありがちなズボラね」
アナスタシア嬢はあきれた感じだけど、毎度のことなのか、意外そうではない。
わたしはよくわからないままについていく。
お部屋から出て、昇降機で下階へ向かっていくが、行きさきは地上階ではなかった。
三階で降りてさらにドアを一枚開けると、おしゃれながらも落ち着いた雰囲気の、ラウンジスペースが広がっていた。
設備的には本当に高級ホテルと区別がつかないな。ちがいは、外からお客さんが入ってこなくて、そこかしこでこちらをもてなそうと待ち構えているホテリエさんの姿もないことくらいか。
「そのへんに座っておいて。飲み物持ってくるわ」
クロエさんにしたがって、革張りのソファチェアに座って待つ。テーブルは天板がガラスだった。カフェスペースというよりは、応接セットに近い感じだ。ここで上流階級どうし、ビジネスの話が交わされることもあるのだろう。
しばらくしてお盆を手に戻ってきたクロエさんがテーブルにおいてくれた飲み物は、グラスに極太のストローが差されている。タピオカ入りのお茶だ。
「セルフサービスの代わりに、入居者は無料なの」
ご自分用のグラスを手に、クロエさんはそういう。
自宅のドアを出て昇降機でちょっと下の階にいけば、いつでも飲み放題となれば、たしかにお茶の常備をしなくなってしまうかも。
とりあえずいただきます……んー、茉莉花の香りが爽やか。無料とは思えない美味しさだわ。
お茶自体は甘さひかえめにして、タピオカをスイートなぷちぷちにするこのチョイスはわたしの好みですね。
セルフサービスとのことだけど、ボタンひとつで出てきたわけじゃなく、ドリンクとオプションのフレーバーを選んだクロエさんのセンスだろう。
クロエさんのほうはといえば、携帯端末でタピオカティーの写影を撮っていた。そっち系のひとだというのは、まあ想像つく。
「あの、クロエさまって、ファッションモデルでエアリアル・レーサーの『雷閃のココ』ですよね?」
ようやくというべきか、確認してみると、クロエさんはちょっと意外そうにわたしのほうを見返してきた。でも、その表情とは裏腹に、自分の名声に対する確固たるプライドがにじみ出ている。
「あら、ご存知だったの?」
「昨日はじめて知ったんですけどね。予選会場で受け取った選手カタログで拝見しました」
わたしのにわか告白に、クロエさんの口角が優美な曲線を保ちきれず、ぴく、とうごめいた。
「ペティはこういう子よ。都の流行りものにいちいち目を奪われないの」
なぜだか横から楽しそうにいったのは、アナスタシア嬢だ。……いや、わたしはアンテナが故障してるだけで、べつに世の中のトレンドに背を向けながら生きることへ、暗い情念を燃やしてるってわけじゃないんですが。
「……まあ、知ってもらえているなら話は早いわ。私はモデルである以前にエアリアル・レーサーで、いちおう、予選免除でグランプリ本戦に出られるていどには実力もあるつもり」
気を取り直してつづけるクロエさんに、まずはこちらの懸念を伝えることにした。
「わたしの友人であるリリベル=ウィンクスも、たぶんグランプリ・レースに出ることになります。クロエさまもご存知だとは思いますが。……勝ちを譲ってほしいというお話しでしたら、ご要望には応じかねますけど」
仮にわたしが出来レースに同意したとしても、リリベルはそんな指示にしたがってくれるわけないし。
クロエさんは、むしろ面白そうに笑った。
「もちろんそんなお願いじゃないわよ。それと、グランプリ・レースで選手どうしがチームを組んで協力することは禁止されていないから、あなたが私とどういう話をしても、リリベルさんに不利益はないわ、安心して」
「そうなんですか?」
「予選コースとはわけがちがう、全長180キロメトラの大レースよ。単なるスピード自慢のレーサーがスタートからゴールまでトップで飛びとおせたことなんて、一度もないわ。道中での駆け引きこそがグランプリの本質」
ベイ・エリアのみで行われている予選とは打って変わって、グランプリ本番はドラゴンハート市全域を使っての長丁場になるというのは、わたしも配布パンフレットで見て知っていた。
行政区画としてのドラゴンハート市は、だいたい差し渡し40キロメトラある。市の西端に位置するドラゴンアイ空港をスタートし、市の南の境界線近くを飛びながらベイ・エリアに入り、東の市境でターンしたら、予選コースとは逆向きにドラゴンテール川の上を進んで、市の北端に達したところでふたたび西へ。
魔術師範学校の近くも通過することになるが、今度は市の西端までは行かずに途中で折り返し、都心部へと向かっていく。官庁街や高級住宅地の上を飛び抜け、摩天楼街を螺旋状に翔け昇って、最上層に達したらゴールだ。
言われてみればたしかに、ひとりの選手が一度もトップを譲らずに勝ち切るのは無理だろう。どんな高度でも、ひたすらな直線でもコーナーが連続するセクションでも、あらゆる局面で最速でいられる飛行術者というのは存在しない。
歴代グランプリ優勝者の中には、最高速が音速におよんでいない人もすくなくなかった。ただのスピードレースではないのだ。
そこまでは理解できましたが。
「では、どういったお話しなんでしょうか?」
わざわざアナスタシア嬢に頼んでまでわたしを呼び出した理由がわからないので重ねて訊ねてみると、クロエさんはこれまでより低いトーンの声で応じた。
「むしろ私は、あなたのお友だちであるリリベルさんに勝ってもらいたいの。テオドール=マーズにね」




