宝物
車が出発してからも、車内では沈黙が当たり前だった。
そんな空気に嫌気が差したのか、不意に姉が小暮先生にお礼を言った。
小暮先生は片手で運転しながら、髪を横に払った。
「お礼を言うのはわたしのほうですよ、大浦天音さん。
わたしはあなたたちに感謝をしているのです。
だって、そうではありません? 担任教師であるこのわたしが教え子たちのピンチに気付かず、普通の暮らしをしていたのですよ。彼らを守ることをせず、です。
危うく、わたしは担任教師の責務を放棄するところでした。
なので、本当に感謝をしています。ありがとう」
「いえ、あたしは何も……全部、詩織ちゃんがしてくれたことですから。
彼女、立派ですよ。
子どものプライドを捨ててまで大人を頼るなんて……あたしみたいな人間には、とても真似できません」
小暮先生のお礼を聞いて、姉は謙遜し、詩織さんを褒めた。
実を言うと、最初のぼくは小暮先生の登場をあまり快く思わなかった。
姉が言ったように、それはやはり子どものつまらぬプライドだった。
大人が干渉すること、大人を巻き込むこと、それをぼくは嫌った。
けれど、今はまるで違った。
大人である小暮先生は、まずぼくらの担任教師だったからだ。
担任教師の責務は、教え子を守ること。
それをすっかりぼくは失念していた。
今のぼくは小暮先生を快く受け入れ、さらには彼女を仲間だとさえ思っていた。
少なくとも、今この場では仲間だ。
そこまで考えたとき、「彼女」がぼくの腕を何度か叩いた。
ぼくは誰が見たって優しい笑みを浮かべ、「どうしたんですか?」と「彼女」に訊いた。
しかし、「彼女」の表情は険しい。
「翔くんはさ、『美楽の森』でのこと、もう覚えていない?」
「『美楽の森』、ですか」
「美楽の森」なら、美楽湖での旅行のとき、梓さんが教えてくれたはずだ。
しかし――。
「ぼくはその森には入っていませんよ」
見るからに「彼女」は落胆した――かと思えば、「彼女」は希望を持ったようにぼくを見すえ、「じゃあさじゃあさ、あの森で星空を見上げたことは? ね、それは覚えているよね、ね?」とまくし立てた。
なぜだろうか、無性に胸がうずく。
けれど、「彼女」の言うことが本当にあったことなのかどうか、ぼくには分からない。
覚えていない。
だからぼくは何も言葉を返せず、ただ「彼女」をじっと見つめることだけしかできなかった。
いやに優しげなぼくのまなざしに対し、「彼女」はあっけにとられていたが、やがてぼくのまなざしの意味に気付いたのか、「彼女」は息を呑む。
「覚えて……いないんだ」
「ごめんなさい」
ぼくは謝ることしかできなかった。
お互い、無言になる。
やがて、「彼女」は小さい声で言った。
「あのとき、わたしが言おうとした言葉はさ、『もしもね、わたしがさ、消えてしまったとしたら、翔くんたちはわたしのこと、忘れちゃうかな?』なんだ。
でも、もうダメだね。
みんな、わたしのことなんて忘れちゃうんだね。……正直に言ってもいい? わたしさ、きみたちとの思い出旅行、楽しかったよ。ずっとずっと忘れないよ。
みんなが忘れても、わたしはいつまでも忘れないよ。
ずっとずっと、わたしの宝物だよ。それ、分かっている?」
「……はい、分かっています」
直後、「彼女」は胸を押さえ、泣き出してしまった。
「彼女」が泣き出した途端、なんと遙香さんも泣き出した。
「おいおい、きみまで泣かなくたっていいじゃないか」
ぼくはあきれた。
そのとき、ぼくの目がかすんだ。
なんだろう、とぼくは目をこすってみる。
それは――。
「涙……」
涙だった。
それが涙だと認識したとき、ぼくは泣いた。
いや、すでに泣いていた。
大泣きだ。
悲しいとき、人は涙を流す。
その一方で、悲しくないと分かっているのに、人は涙を流すことがある。
それはたぶん、いつも以上に悲しいからなのだろう。
自分が気付いていないだけで、心が傷ついているからなのだろう。
涙を流したいからなのだろう。
泣きたいからなのだろう。
「ちくしょう、ちくしょう……!」
そんなぼくらだが、奈蔵川河川敷のほうに刻一刻と向かっていた。
心が傷つきながら、ぼくらは向かう。
奈蔵川河川敷へ。




