青春料理
午後五時三十分、つまりは夕食一時間前になり、ようやくぼくは姉からの問いを思い出した。
それはぼくが一二〇七号室の部屋に入ろうとしたときで、衝撃のあまり、ぼくはドアの前で立ちすくんでしまった。
そのとき、一二〇八号室の部屋から梓さんが出てきた。
温泉からあがったばかりなのか、梓さんからは甘い石鹸の香りがし、ぼくは頭がクラクラするのを感じた。
「おや、翔じゃないか。そんなところに突っ立っていると、危ないよ」
梓さんはぼくの前を通り過ぎるとき、こちらにほほ笑みかけた。
その笑みは大人特有の笑み。
それはつまり、青春時代を生き抜き、大人時代で戦っている者の笑みだった。
このとき、ぼくは直感した。
この人なら、例の問いの答えを知っているはずだ、と。
というわけで、いきなりではあったが、早速ぼくは訊いてみた。
「……梓さん、青春とはなんですか?」
梓さんは立ち止まる。
あまりにぼくがまじめくさった顔をしていたからなのか、それともぼくらの事情を知っていたからなのか、梓さんは「ん」と声を上げたきり、黙り込んでしまった。
沈黙。
居心地のよい沈黙があればいいのに、とぼくは心の中で舌打ちをした。
けれど、ぼくは梓さんが言葉を発するのを待った。
それは人生の先輩である梓さんを敬い、彼女を信じる行為にほかならない。
青春を謳歌する子どものぼくらとは違い、梓さんは青春を物語る大人なのだ。
過度な期待かもしれないが、梓さんなら……彼女なら、青春がなんたるかを知っているような気がする。
そうぼくは強く感じた。
それから十秒ほど経ち、ようやく梓さんはぼくの問いに答えてくれた。
「青春っていうのはね、片思いのようなものさ。
いくらあたいが『青春』のことを想っていても、奴はあたいのことを見ていないどころか、たくさんあるコンビニのひとつくらいにしか思っちゃいない。
で、そんなあたいにも『青春』に似た野郎が近寄ってくるんだけど、ところがどっこい。あたいは奴だけを見ていて、野郎には目もくれないんだね。なぜだか分かるかい?
――奴が好きだからだよ」
「……でもそれは片思いで、意味がない」
おっと。
思わず、口に出してしまった。
梓さんはふっと笑い、「ああ、そうだね」と髪をかき上げた。
「でもね、そのやるせなさが青春の正体なのだと、あたいは思うよ。
もっと言えば、自分の理想を追うという行為自体、それは青春……なんだけど、あたいたちが『青春』だと思っていた奴、それは実は青春を味付けするスパイスなんだね。
そうさ、あたいたちの恋路を邪魔する野郎こそ、『青春』なんだよ。
あたいたちはスパイスを『青春』だと勘違いするほど、愚か者なのさ。
それでも忘れちゃいけないのは、その愚かさが青春時代を楽しくしていくポイントなんだから、ぜひとも愚か者になるべきだね」
愚か者になるべき。
その梓さんの言葉は、ぼくの心を強く惹いた。
「で、大人になって青春時代を懐かしんだり、後悔したりする理由だけど、それは『青春』という料理がおいしかった証拠さ。
大人になると、青春料理を再び食べたくなってしまうんだよ。まさに大人の性だね」
「えっと……え、青春料理?」
ぼくが目をむくと、梓さんはクスクスと笑った。
「さすがに青春料理はややこしすぎたね。
何はともあれ……あたいなら、青春とは『片思い』だと答えるよ。
納得したかい、翔?」
ぼくはニコリとほほ笑み、「ええ、納得しました」と梓さんに親指を突き出した。
梓さんも親指を突き出し、「じゃあ、あたいは一階の売店を見に行ってくるから」とこちらに手を振り、エレベーターホールへと向かった。
ぼくは梓さんに手を振り返しながら、「いってらっしゃい」と彼女を見送った。
なんだ、梓さんも結構かわいい人じゃないか。
そうぼくが心の中で思った直後だ。
ドタバタという足音がしたかと思えば、梓さんがこちらに引き返してきた。
彼女は殺気立った様子で「……心の中でハレンチなこと、今考えなかったかい?」とこちらに訊いてくるのだった。
数秒間、ぼくらは見つめ合ったが、先にぼくのほうが折れ、急いでぼくは目の前の一二〇七号室の部屋に戻った。
ああ、とんでもなく恐ろしい目に遭った。
やはり、梓さんはおっかない人だ。
龍司さんはぼくと梓さんの会話が聞こえていたのか、ぼくがベッドの布団にくるまると、彼は「分かるぜ」とこちらに声をかけてきた。
ぼくは親指を突き出すことで、龍司さんに反応。
それから五分以上、ぼくは布団にくるまっていた。




