早退
冷房がよく効いた二年一組の教室では、夏奈さんが机や椅子に次々と体当たりしながら、癇癪を起こした子どものように泣きわめいていた。
一体何が、と衝撃を受けて足がすくんでしまうぼくだが、すぐに勇ましくショックから立ち直った。
おそらく、夏奈さんは同級生のみんなが自分を忘れていることに対し、錯乱しているのだ。
遙香さんや徹たちはどこに、とぼくはきょろきょろと周りを見たが、遙香さんや徹たちはおろか、亜門や小暮先生もこの場にはいなかった。
この場に遙香さんたちがいないのならば、ぼくが夏奈さんを救うしかない。
ぼくは教室の隅っこでおびえたようにしている同級生たちをきつく一瞥したのち、その場にスクールバッグを置くと、夏奈さんの元に駆け寄った。
「夏奈さん、どうか落ち着いて。ぼくはきみのことを忘れてはいないよ」
一度、夏奈さんは派手に机にぶつかり、けれどその痛みに顔をしかめることもなく、痛々しげにしゃっくりを上げると、涙で充血した目をこちらに向けた。
その目は絶望や悲哀や不安に満ちていて、見るに堪えなかった。
そして、彼女は一気に心の中にたまっていたヘドロを吐き出した。
「わたしは何? わたしは死者? わたしは不完全? いずれ、わたしはみんなから忘れ去られる存在?
あのさ、もうわけが分からない。
ただわたしは遙香のウソを暴きたかっただけなのに、それだけなのに……ねえ、どうしてこんなことになってしまうのよ、どうしてこんな悲劇になってしまうのよ。
悪い夢なら、もう覚めて……もうやめて。
わたし、普通に生きたいよ。みんなのように普通に生きたい」
「夏奈さ――」
「しゃべるな、ゴミ!」
夏奈さんは怒声を上げるなり、ぼくの近くにあった机を足の裏で蹴飛ばし、倒れた机は不快なほどに大きな音を立てた。
悲鳴。
号泣。
怒声。
錯乱は混乱を招き、その結果、一刻を争う状況となり、場は混沌としてきた。
このままだと、夏奈さんは壊れてしまう。
それはまずい。
けれど、ぼくは無力だ。
ぼくなんかでは夏奈さんを救えそうにない。
ではどうすれば?
どうすれば、夏奈さんを救える?
どうすれば、どうすれば。
どうすれば、普通に生きたいと願う一人の少女の気持ちを分かってあげられるのだろう。
ぼくが悔し涙を浮かべたとき、颯爽と一人の男子生徒がこの場に現れ、夏奈さんの肩に手を置いた。
夏奈さんは息を呑む。
ぼくも息を呑む。
男子生徒の名は、灰原徹。
恋愛反対運動代表であるとともに、ぼくらの頼もしきリーダーだった。
「おれには分からないのだが、何をそんなに動揺しているのだ、夏奈よ。
誰もお前のことを忘れてはいない。
お前のことを忘れたのは、この現実というゲーム世界のNPCだ。
決して、PC連中はお前のことを忘れてはいないぞ。
そこを勘違いしてはなるまい」
夏奈さんは徹の励ましの言葉を聞き、感極まったように涙を流し、身体を震わせ、徹に強く強く抱きついた。
夏奈さんから熱い抱擁を受けた徹は、彼女の背中にそっと手を伸ばし、優しく抱きしめ返す。
そのとき、廊下を揺るがすほどにドタバタと走る音がしたかと思えば、青白い顔をした小暮先生が教室の中に飛び込んできた。
小暮先生が教室に入るや否や、夏奈さんと徹は抱きしめるのをやめた。
ぼくは青白い顔をした小暮先生を、穴のあくほどによく観察した。
確かに小暮先生は青白い顔をしていたが、同時に怒気を帯びた顔付きでもあった。
まずい。
「あ、あなたたち……この神聖なる教室で、一体何をしていたのですか。正直に答えなさい。
ただし、口答えは一切許しませんよ。そこのところを理解した上で、さっさと答えなさい。
さもないと、今後のあなたたちは楽しい学校生活を送れなくなりますからね。
さあ、今すぐに答えて」
青筋を立てる小暮先生いわく、ぼくらの答え方次第によっては停学処分、もしくは退学処分がありえるらしい。
そんなふざけたこと、あってたまるか。
しかし、ここでも徹は冷静に物を言った。
「どうやらおれたち、具合が悪いようです。申し訳ないですが、学校を早退します」
徹は小暮先生に行儀よく一礼してから、「行くぞ」とぼくと夏奈さんに声をかけた。
ぼくと夏奈さんは徹に従うことを選び、そそくさと早退のための準備を始めた。
一方、小暮先生はぼくらが早退することを聞いても、声を荒らげることをしなかった。
小暮先生は唇を強く噛み締め、ただその場で不穏に立つだけ。
教師という職業に誇りを持つ小暮先生にとって、このような事態は一番悲しいことなのだろう。
それが分かったとき、ぼくはとてもやるせない気持ちになった。
ぼくらが教室から出ようとしたとき、ようやく小暮先生は言葉を発した。
「しっかり体と心を休むのですよ。決して無理をしないで。
元気になったら、また教室に来てくださいね」
ぼくらは一斉に小暮先生のほうを振り返る。
ぎこちない笑顔ではあったが、小暮先生はほほ笑んでいた。
教え子を思いやる教師の気持ち――このとき、ようやくそれをぼくらは理解した。
ぼくらは小暮先生に頭を下げると、かつてないほど落ち着いた様子で、この場をあとにした。




