成長の夏
三十分ほど、ぼくと夏奈さんは夏の日射しの餌食になりながら、どこまでも続くかと思われる道を黙々と歩き続けた。
これが苦痛かと言われたら、実はそうでもない。
むしろ、この気まずさと罪悪感は心地よいもので、それらは今のぼくにとって必要であり、必然的で必須な感情だった。
ついでに言うと、夏の日射しはそれらの感情を強化し、束ねる役割があったため、太陽を憎もうにも憎めなかった。
太陽はぼくらの味方であることに変わりはないが、少々彼は出しゃばりすぎてしまう悪い癖があるようで、それは時にぼくをモヤモヤとさせた。
モヤモヤといえば、もうすぐ高校の正門に差し掛かろうというとき、こんなことを夏奈さんは言い出した。
「遙香から聞いたけどさ……翔くん、重要な記憶をすぐに忘れてしまう病気を患っているんだって?
うーん、きみもなかなか大変だよね。それでいて、きみの病気は都合がいいようになっているしさ、なんだか羨ましいな。
身勝手すぎて、きみをいっそのこと絞め殺したくなっちゃうよ」
「…………」
こういうとき、ぼくはどう反応すればよかったのだろうか。
無性にモヤモヤする。
そのとき、正門前にいた複数の風紀委員(ただし、その中には詩織さんや亜門はいなかった)が、これが我々の生き様とばかり、「おはようございます」とこちらに頭を下げてきた。
いわゆる、風紀委員会による朝の挨拶運動である。
ぼくは考えることに夢中で、挨拶ロボットと化した彼らに挨拶を返さなかった。
それは夏奈さんも同様で、どころか彼女は風紀委員数人を見たとき、なんと彼らを鼻で笑った。
当然、これらはお咎めなしとはならず、すぐさまぼくらはその場にいた風紀委員長の新田信茂先輩から説教を受けることになった。
無事、ぼくらは正門から少し離れた場所の花壇に連行。
信茂先輩は長身でありながら、学生服が似合う美男子だ。
彼の切れ長の目の下には泣きぼくろがあり、それでにらまれた女子生徒は大げさに胸を押さえ、数日のあいだはもだえるという。
しかし、目の前の信茂先輩は見るからに不穏なオーラを漂わせていて、違う意味でぼくは胸を押さえたくなった。
夏奈さんは信茂先輩のことを知っているのか、それとも単に彼の色気にやられたのか、いやにソワソワとしていた。
やがて夏奈さんは信茂先輩の説教を遮ると、次々と意味不明なことをしゃべった。
「この花壇、きれいですね。きれい……そう、きれいなんですよ。
わたし、信茂先輩みたいな心がきれいな人間になるのが夢なんです。夢……そう、これは夢なんです。
だってそう思いません? 離れ離れになったわたしたちが再会するなんて、夢みたいで夢のような夢のある夢なんですから。
うふふ、この花はなんて言ったかしら。ええと、ええと……そう、花に名前なんて不要なんですの。
これはわたしたちの再会を祝う花であり、これからのわたしたちを応援する花なんですから、名前など必要ありませんよね。ええ、これは名もなき花です。
わたしたちの恋も、きっとこの花のようにきれいなものになるに違いありませんわ。
ですから、信茂先輩。わたしたちにしか作れない花壇を……いえ、わたしたちにしかできない恋愛を、わたしとしてみませんか?」
夏奈さんの長たらしい告白のような告白に対し、信茂先輩は「ああ、それは無理だ。雑草を花と間違える時点で、おれの伴侶としてふさわしくない。どこの誰か知らないが、諦めてくれ」と真顔で拒否。
すると夏奈さんは本来の口調に戻り、「あのさ、信茂。わたしのこと、覚えていないの? 大盟小学校のとき、天野遙香と一緒にいた倉木夏奈のこと、覚えていないの? わたしさ、引っ越す前にあんたの家で告白したじゃん。そしたら、わたしは見事にあんたからフラれたけど……ねえ、本当に覚えていないの?」と信茂先輩に詰め寄る。
どうやら、信茂先輩は遙香さんや夏奈さんと同じ小学校に通っていたようだ。
そして、夏奈さんは信茂先輩を好いていたらしい。
しかし、信茂先輩は首を横に振った。
「大盟小学校の後輩、天野遙香のことはよく知っているが、あんたみたいなお調子者の後輩のことは何ひとつ覚えていないし、知りもしない。悪いが、人違いだろう」
最初、それを聞いた夏奈さんは怒りを露わにするが、それもすぐになくなり、今度は不安と緊張の表情を浮かべた。
最初、そんな夏奈さんを見たぼくはきょとんとしていたが、彼女がなぜそのような表情になったのかを想像し、そのおかげで重要なことを思い出した。
きょうはなんの日か?
それは“ほとんどの教職員や生徒たちが、夏奈さんのことを記憶から忘却する日”だ。
ならば、信茂先輩が夏奈さんのことを知らないと言い放ったのも、それが関係しているに違いない。
ということはつまり、すでにみんなは“夏奈さんのことを忘れている”――?
「あはは……参ったな。分かっていたことだけどさ、何よ、なんだっていうのよ。
だってさ、わたしは確かにここにいるし、ちゃんと存在しているじゃん。
こんなの、何かの間違いよ」
夏奈さんは涙交じりにつぶやくと、一歩二歩とあとずさり、それから昇降口のほうへ走り出してしまった。
あわててぼくは夏奈さんを追いかけようとしたが、信茂先輩がぼくを呼び止めたため、仕方なくぼくは「なんですか?」と信茂先輩のほうを振り返った。
信茂先輩はというと、いつにも増して彼はまじめな顔だった。
「どうかあいつを守ってやれ、翔。
これはお前にしかできないことなんだと、おれは無責任にも思った。
そして、それはきっと事実なんだと思う。
漢の役割は乙女を守ることだ。
お前も漢だよな、翔。だったら、お前にも乙女を守る義務がある。違うか?」
目が覚めた。
正気になった。
それは善が悪に打ち勝った瞬間だった。
偽善でもいい、偽りの友情でもいい、偽りの愛でもいい。
夏奈さんを守りたいという想いが本当ならば、どんなことも些細な問題だ。
ぼくは夏奈さんを守りたい、ぼくは夏奈さんに幸せになってほしい。
自分の想いにウソをつかなければ、自分の願いにウソをつかなければ――自分にウソをつかなければ、ぼくはぼくのままでいられる。
いや、ぼくらはぼくらのままでいられる。
結果、みんなは幸せになれる。
「……そのとおりです、信茂先輩。ぼく、目が覚めました」
ぼくは信茂先輩に一礼すると、軽くなった心と足で夏奈さんを追いかけた。
太陽はにんまりと得意げな顔になり、ますます日射しを強めたが、今のぼくはそんなことに構っている場合ではなかった。
夏奈さんを守るべく、今度こそぼくらの新たな夏と非日常は始まり、ぼくらの成長の夏は動き出した。




