先々彼女
瞼を開けた梶原の視界に最初に入り込んだものは止まった目覚まし時計だった……30分ほど前に。一気に顔から色を失わせた彼は神業的な早さで顔を洗い、歯を磨き、学ランを着て階段を降りる。一回転けつつ。
涼が復活してから1日にして心労が重なり体が起きることを拒否したのだろう。でも目先の安息を求めたって最終的に意味はない。
どうしようどうしようとグルグルと考えてカオスな頭を彼は叩く。もう諦めるしかない。覚悟を決めよう。早起きな涼はとっくの昔にこの玄関の前に立っているに違いない。よし、行くぞ!
「すみませんスミマセンごめんなさい!」
「おはよう」
そろそろと玄関を開けた梶原を迎えたのは笑顔の涼で。
「……」
「なんだボケ。早く自転車用意してよ」
「あ。うん」
拍子抜けだった。まあ何もされなくてよかったなと深く考えずに彼は中学生の頃から愛用している自転車を出す。
「じゃーん! 見てみ。新作!」
梶原家の玄関先に植えてある桜の木の影から出た涼は桃色の花弁が刺繍されている日傘をさした。涼が作ったものである。彼女の頭上で満開の桜より綺麗に見えるのは目の錯覚ではないだろう――激しい性格と裏腹に涼はこういう細やかな事が趣味で器用に作ってみせる。彼女の作品を毎回見てきている梶原は素直に感嘆の言葉を紡ぎ、尋ねる。
「これで何本目? 退院して忙しかったんじゃないの?」
「10本くらいじゃないかな。一年間準備して来たようなもんだから別に忙しくなんてないし」
そう言いながら涼は自転車のカゴに鞄を突っ込んだ。
日傘を差しながら自転車の荷台にちょこんと座って梶原の腰に腕を回した涼は楽しげに級友達の話をし始める。涼がすぐに級友達と仲良くなれたのは、彼女の要領のよさもあるが梶原が入院中の涼によくF組の話をしていたおかげだろう。入院中は目を輝かせて梶原の話を聴いていた涼、病院であの医者をからかっただの看護師を泣かせただのボケた爺と碁を打っただの暇だ暇だ観晴ジャンプ買ってこいだのと話していた涼が嬉しそうに友達の話をするのは梶原にしても喜ばしいことだった。後ろをこっそり振り向くと梶原の知り得ない方法で器用な涼が結ったり、編んだりした髪がふわふわと揺れていた。
「オイ話聴いてんのか」
「うんうん聴いてるから日傘で刺すのは止めくれない?」
「ふーん。でね、道善が…」
日傘を持ち直した涼は笑顔でまた話し始める。梶原の胸はちくりと痛んだ。…痛んだ?
何だこの気持ちは。ずっと入院していた涼が学校にすぐ順応できたのは幼なじみとして素直に嬉しいし、涼に友達が増えたら必然的に梶原がぱしられる機会も少なくなるだろう。ちくりと痛むような要素は何もないのだ。
眉を寄せながら梶原は考え、はっと気づいた。
これは…ただの独占欲だ。もう涼は梶原が保護しなくても充分に強いことは分かっているのにまだ自分は保護者のような感覚でいるのだろう。情けない。変わっていないのは自分だけだ――
「ちょ、いたたたた地味に痛いそれ!」
「やっぱり話聴いてないだろ? 深く刺して目ェ覚まさしてやろうか?」
「遠慮します!」
涼は考えこんでいた梶原の背中にまたガスガスと日傘を刺す。
あーあ。昔はこんなに強くなかったのに…誰がこんなに最強最悪にしたんだろう…そうひとりごちながら梶原は涼が乗っても負荷がほとんど変わらない自転車を漕いで行くのだった。




