E1.遺された約束
煮えるように暑い日だった。
一軒家の並ぶ住宅地を歩きながら、『なぜ歩くという選択をしてしまったのだろうか』と、俺は数十分前の判断を悔やんでいた。
今日は夏休み最初の猛暑日。
昨日の天気予報でも散々注意喚起されていたというのに、駅を出た時点でおとなしくタクシーを拾えばよかったのだ。バスがあと四十分は来ないからと、不用意に歩き始めるんじゃなかった。
「……暑い」
額の汗を手の甲でぬぐい、生温くなったスポーツドリンクで乾きを満たす。
目的地が近づくにつれ、思考は炎天下を歩く理由――昨晩届いた一通のメールへと戻っていく。
送り主は、半年前の冬に他界した父方の祖父。俺が“爺さん”と呼んで慕っていた人物だ。
メールの内容は爺さんらしく、『家に来い』とだけ短く記されていた。
死後の世界から届いた――とは、さすがに思わない。生前に予約していたメッセージが自動送信されたと考えるのが妥当だろう。
しかし、なぜ今になってそんなメールが届くよう設定したのか。その真意が気になり、俺は爺さんの家を訪ねる事にした。
ペットボトルが空になる頃、石塀に囲まれた伝統的な日本家屋が視界に入った。
近隣の家屋とは一線を画す大きさ。そして、重厚感。
家主を失ってなお、その屋敷は周囲を圧するような威容を保っていた。
幼い頃に預かった鍵を差し込み、まずは門扉の鍵を解く。
門を開いて最初に目に飛び込んできたのは、庭に植えられた一本の桜の木だった。
見慣れた大きな桜の木。
春になれば見事な花を咲かせるこの木の下で、爺さんとは将棋を指しながら花見をしたものだ。
和菓子とお茶を楽しみながら、ゆったりと盤面を見つめる。時間の流れから隔離されたような、あの穏やかな時間が俺は好きだった。
蘇る記憶に浸りながら、俺は庭を抜けて玄関に立つ。
物理キーだった門扉とは異なり、こちらは生体認証で開く現代仕様だ。
カメラに顔を向けて数秒、ロックが外れる無機質な機械音が響いた。
「……ただいま」
半年ぶりに訪れた家の中は、わずかに埃っぽかった。
靴を脱いで上がろうとしたところで、手首に着けた端末が着信音を鳴らす。
送り主は、またしても爺さんからだった。
内容は相変わらず簡潔で、『作業部屋へ来い』とだけ。
驚いて辺りを見回すが、当然人の気配はない。
「自動送信、か……」
家への立ち入りをセンサーが検知したのだろう。
少し不気味ではあったが、俺はひとまずメールの指示通り、奥にある作業部屋へと足を向けた。
幼い頃には迷宮のように感じていた広い屋敷も、今では身体が順路を覚えている。
迷うことなく作業部屋へ辿り着き、俺は少しの警戒を抱きながら襖を開けた。
窓のないその部屋は、真昼だというのに濃い暗闇に沈んでいた。
――カチッ。
足を踏み入れた瞬間、独りでにPCの電源が入った。
続くように、壁一面の巨大なスクリーンが淡い光を放ちながら起動する。
『対象ユーザーの入室を確認。指定プログラムを実行します』
AIの無機質な音声が部屋に響く。
流れるような状況の変化に戸惑っていると、今度はスピーカーから聞き慣れた声が漏れた。
「久しいな、悠冬」
スクリーンに映し出されたのは、一人の老人だった。
鋭い瞳に、豊かに蓄えられた白い顎髭。右頬の傷と険しい表情。
死んだはずの男が、そこにいた。
「爺さん、なのか……?」
「それは是であり、否でもある。わしは“御鍵 春芳”が死後に起動するよう仕組んだ疑似人格プログラムだ」
「疑似人格プログラム?」
「春芳の再現人格だ。自身の死後、とある目的を完遂するために作り出された存在である」
爺さんは“VW”関連の研究者だった。
プログラミングにも明るかったから、この疑似人格もその知識の結晶なのだろう。
それにしても、完成度が高すぎる。
思考傾向を学習させたAIなのだろうが、まるで生前の爺さんがそこに座っているみたいだった。
「目的、っていうのは?」
「立つ鳥跡を濁さず。死んだ自分の後片付けだ」
何事も最後までやり遂げることを信条としていた、いかにも爺さんらしい言葉だった。
俺が納得したのを見て、疑似人格の爺さんは「さて――」と言葉を継ぐ。
「悠冬よ。わしの最期の願いとして、少しばかり頼まれ事をしてくれないか」
「頼まれ事? 俺にできる範囲なら、協力したいけど……」
世話になった爺さんへの恩返しはしたい。
だが、数ヶ月前に高校生になったばかりの自分に何ができるのか。自信のなさが、言葉を少し慎重にさせた。
しかし、その答えで十分だったらしい。
モニターの中の爺さんは、満足げに頷いた。
「悠冬なら出来るとも。なにせその願いはSecond・Sphereでのことなのだからな」
そのタイトルを聞いた瞬間、俺の表情は嫌悪感にこわばった。
爺さんの趣味を馬鹿にするつもりはない。
俺自身、かつては寝る間も惜しんでログインしていた側の人間だ。
問題なのは、その舞台が〈Second・Sphere〉だということだった。
今の俺は、あの世界を半ば引退した身だ。
逃げるようにしてプラグを抜き、それ以来、ログイン画面すら見ていない。
恩返しの情と、あの世界への強い忌避感。
二つの感情が胸の中で激しくせめぎ合い、答えが喉に詰まる。
部屋に重苦しい静寂が満ちた。
「嫌か?」
沈黙と俺の表情から何かを察したのか、爺さんが問いかけてくる。
モニター越しの瞳が、じんわりと悲しげに揺れた気がした。
それを見て、心の中の天秤が傾く。
たとえこれが、高度な演算によって作り出された偽物の表情だったとしても。
俺は、爺さんにこんな顔をさせたくはなかった。
「……何を、すればいい?」
喉から出たのは、絞り出すような声だった。
「わしの願いはひとつ。墓を作ってほしいのだ」
脳裏に浮かんだのは、墓地にある立派な墓石。
現実世界の爺さんの墓だ。
だが、そうではない。
爺さんの意図を確認するように、問いかける。
「それは、|Second・Sphereの中に作るってこと?」
「〈世界樹〉の麓にある〈英雄墓地〉に墓が欲しい。それが、春芳が生前望んだ最期の願いだ」
〈世界樹〉。
それは、Second・Sphereを象徴する巨大な樹木である。
そして記憶が正しければ、〈英雄墓地〉はその麓にある墓地だった。本来なら物語に名を刻んだNPCのみが眠る聖域。プレイヤーが勝手に利用できる場所ではない。
「ただのプレイヤーが墓を作れるような場所じゃないだろ。何か伝手でも?」
「うむ。春芳は生前、王と一つの約束を交わしていた。その約束を果たせば、埋葬を認めてもらえるはずだ」
「その約束っていうのは?」
「言えん。というより、わしにはそれを伝えれる権限がない。……手数をかけるが、王に直接会って聞いて貰う他ないだろう」
爺さんは、俺を王に謁見させたいらしい。
それによって何か特殊なクエストが始まるのかも知れないが、正直いうと約束は教えておいて欲しかった。
しかし、わざわざそんな仕掛けを用意しているあたり、爺さんの本気度も窺える。
「……分かった。とりあえず王都を目指してみる」
「簡単ではないと思うが、頼んだぞ」
返事をしたものの、胸の奥には重い鉛のような感覚が残っていた。
もう二度と触れないつもりだった世界へ戻る。
それがどれほど自分にとって苦い決断なのか、改めて実感する。
ふと視線を巡らせれば、薄暗い作業部屋のあちこちに爺さんの痕跡が残っていた。
使い込まれた工具。
山積みの資料。
机の上に置かれた、古い将棋盤。
もう本人はいないのに、この家にはまだ爺さんの時間が息づいている気がした。
だからこそ、不意に気になった。
「今後、この家はどうなるんだ?」
「……遺産管理もわしの管轄だ。幸い財はまだ残っているゆえ、悠冬が最期の願いを叶えるまでは維持するつもりだ」
「願いが叶った後は?」
「この辺りは再開発で地価も高騰している。売却して資金を分配するのが合理的だろうな」
売られてしまう。
その言葉に、胸がざわついた。
爺さんとの思い出が詰まったこの場所が消えてしまうのは、自分の過去まで削り取られるようで嫌だった。
「俺が爺さんの願いを叶えたら、この家を譲ってほしい」
「意外だな。記録では遺産には興味がないはずだったが……。よかろう、承知した。春芳の願いが成就したあかつきには、この屋敷をすべて悠冬へ譲渡しよう」
「……いいのか?」
「構わん。もとより、対価なしに働かせるつもりはなかったからな」
拍子抜けするほどあっさりとした返答だった。
金が欲しいわけじゃない。
ただ、爺さんとの記憶を“形”として守りたかった。
「ありがとう。じゃあ、さっそく準備を始めてみる」
「頼んだ。何かあればメールで連絡せよ。もっとも、疑似人格のわしが答えられることは限られているがな」
『プログラム終了』
微かな笑みを浮かべた爺さんの顔を最後に、モニターが消灯した。
再び部屋に暗闇が戻る。
開いたままの襖から差し込む外光が、やけに眩しく感じられた。
「……タクシー、呼ぶか」
外の殺人的な陽光を思い出し、俺は手首に付けた端末で配車アプリを起動した。




