E0.プロローグ
「……ふぅ」
昂る気持ちを落ち着けるように、ゆっくりと息を吐く。
決勝戦を前に、俺の気持ちは舞い上がっていた。
勝つ。
その想いだけが胸を満たしていく。
あと一歩。
そうすれば、憧れに手が届く。
落ち着けたはずの熱は、しかしすぐに戻ってくる、
再度深呼吸をしようと息を吸い込んだ時、低く渋い声とともに肩を軽く叩かれた。
「悠冬、時間だ」
瞼を開けて振り向くと、そこには誰よりも見慣れた顔があった。
鋭い瞳。
ふさふさの白い顎髭。
険しい顔つきと、右頬に刻まれた傷跡。
まるで古びた太刀のようなこの老人は、俺――〈御鍵 悠冬〉の祖父、〈御鍵 春芳〉だ。
「あれ、もう?」
「身体を慣らしておきたいだろうと思ってな。……緊張してるか?」
俺は立ち上がり、“爺さん”に向かって笑みを返す。
「全然。むしろ楽しみだよ」
「そうか」
爺さんは無骨な腕を伸ばし、俺の頭を乱暴に撫で回した。
いつも仏頂面だけど、その手つきにはちゃんと優しさがある。
これが爺さんなりの愛情表現なのだ。
「“ダイブ”の準備は済んでいる。いくぞ」
「うん」
爺さんの後を追うようにして和室を出る。
向かう先は、屋敷の北側にある大部屋。
俺が勝手に“ゲーム部屋”と呼び、爺さんが“研究部屋”と呼んでいる場所だ。
「桜。もう咲いてたんだ」
「少し早いな。暖かくなってきているし、不思議ではないが」
庭に植えられた大きな桜の木。
枝先では、蕾がいくつか花開いていた。
まだ肌寒い季節だからだろうか。
それは春の訪れというより、冬の終わりを告げているように見えた。
俺がぼんやりと桜を眺めていると、爺さんが急かすように声をかける。
「何をしている。早く来い」
「あ、うん」
慌てて爺さんの後を追い、部屋へ入る。
薄暗い室内には、100インチを超える巨大ディスプレイと複数のモニター。さらに、個人所有とは思えないほど巨大なPCが鎮座していた。
その巨大なPCからは無数のケーブルが伸びており、その一本がリング状の電子機器へと繋がっている。
それこそが、フルダイブ型仮想世界へ至る鍵――俺たちが《VWDD》と呼ぶものだった。
「準備は完璧だ。いつでもいいぞ」
爺さんはそう言って、《VWDD》の一つを手渡してくる。
それを頭に装着し、俺はベッドへ横たわった。
「それじゃ、行ってくる」
俺がそう言うと、爺さんは無言で拳を突き出してきた。
こんなことをするなんて珍しい。
きっと爺さんもこれから始まる決勝戦に、心を昂らせているのだろう。
「悠冬。……否、“セツ”。『心は熱く』」
「『頭は冷たく』、でしょ?」
拳を軽く打ち合わせる。
そして最後に深呼吸をひとつ。
瞼を閉じ、俺は宣言した。
「――“ダイブ・オン”!」
その言葉をトリガーに、世界が切り替わる。
────現実世界が、仮想世界に。
────肉体が、分身に。
────悠冬が、セツに。
西暦2062年、1月5日。
その日、憧れに亀裂の入る音がした。
◇◇◇
西暦2064年、7月18日。
学生にとって天国みたいな夏休み。
その前日に必ず行われる苦行――先生による「ありがたいお話」を聞き流しながら、私〈霜月 鈴葉〉は明日からの予定に思いを巡らせていた。
やることは決まっている。
ここ二年ほどどっぷりハマっている〈Second・Sphere〉。
そのVWMMORPGに、この夏を捧げる予定なのだ。
中学最後の夏休みをゲームで潰していいのか――なんて声も聞こえてきそうだけど、そんなもの知ったことじゃない。
大型アップデート直前で、やりたいことはいくらでもある。
ここ数年ですっかりゲーマーになった私にとって、長期休暇をゲームに費やすのは当然の流れだった。
まずは“聖水”集めから。
ゲーム内で“魔導調合師”をしている私の主な収入源は、作成したポーションの販売だ。
その素材集めのためにも、聖水回収用ダンジョンの攻略は欠かせない。
アップデート前なのに金策に追われるのも悲しい話だけど、私の財布事情はかなり厳しい。
デイリーミッションの報酬すら有難がるレベルである。
……世知辛い。
退屈なダンジョン周回の道連れを探そうと、乏しい交友関係を頭の中で漁る。
欲しいのは前衛。
前回は“ノノ”さんに手伝ってもらったけど、彼女も店の経営で忙しいし、大会も近い。
何度も頼るのは気が引けた。
となると、野良募集を探すしかない。
私は半ば諦めながらため息を吐く。
野良は玉石混交だ。
オンラインゲーム特有の、面倒なプレイヤーが混ざっていることも珍しくない。
昔みたいに、気心の知れたフレンドが隣にいてくれれば――。
そんなことを考えた瞬間、自然と“彼”の姿が脳裏に浮かんだ。
「……セツ」
口から零れ落ちたのは、彼の名前。
本名も知らない。
顔も知らない。
年齢だって分からない。
それでも彼は、私にとって大切な人だった。
彼が突然姿を消したのは、もう半年前。
大量のアイテムを押し付けるように渡し、『ごめん』とだけ書かれたメッセージを最後に、彼は忽然といなくなった。
発端は、彼が副長を務めていたギルドで起きたトラブルだった。
ギルド解散にまで発展した騒動の中、彼は事態を収めるためにデュエルを行い、そして負けたらしい。
“らしい”というのは、当時の私は家の事情で一週間ほどログインできておらず、戻った頃には全部終わっていたから。
ギルドは解散。
そして彼も、去っていた。
最初に込み上げたのは怒りだった。
話してほしかった。
頼ってほしかった。
力になりたかった。
何も言わずに消えるなんて、あんまりだ。
そもそも彼との関係だって、私の“相談”から始まったのに。
だけど数日も経つ頃には、その怒りも静かな寂しさへ変わっていった。
来る人がいれば、去る人もいる。
それがオンラインゲームだ。
メールだけでも残してくれた分、まだマシだったのかもしれない。
引退したのだと自分に言い聞かせ、私は彼のいない日常を過ごしていた。
そのうち慣れると思っていたそれは、けれども上手くいかなくて、ふとした瞬間に思い出す。
そして私は自覚した。
自分の中にあった、小さな小さな恋心に。
――もう一度、逢えたなら。
気付くには遅すぎた初恋を、私はまだ終わらせられずにいた。




