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悲劇の名将・于禁の再評価 ——合理性と忠義の狭間で  作者: えいの
第3章 歴史家による評価のバイアスと呪縛

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第3節 章邯との対比に見る「悲劇の構造」

歴史というものは、時に数百年の時を隔てて、恐ろしいほどに相似した状況と人間の苦悩を現出させることがある。樊城の戦いにおいて、抗いがたい自然の猛威を前に数万の部下の命を救うべく降伏を選び、結果として千載の汚名を背負うこととなった于禁の真実の姿を理解するためには、同時代の価値観や陳寿という一人の歴史家の偏向を指摘するだけでは不十分である。我々はここで視座をさらに広げ、于禁から遡ること四百年前、秦王朝の末期において彼と全く同じような極限状況に陥り、全く同じような合理的判断によって降伏を選んだ一人の名将の存在を召喚しなければならない。その名将とは、司馬遷が編纂した『史記』において、悲劇の英雄として鮮烈に描かれた秦の最後の柱石、章邯である。章邯が辿った運命と、彼に対する歴史家・司馬遷の眼差しを于禁のそれと詳細に対比することによって、初めて「将軍の降伏」という行為が内包する普遍的な悲劇の構造と、歴史の記録者が持つ恐るべき特権が明確に浮かび上がるのである。

章邯は、始皇帝の死後に陳勝・呉広の乱から始まった未曾有の反乱の嵐の中にあって、崩壊寸前の秦王朝をたった一人で支え続けた不世出の軍事の天才であった。彼は驪山で陵墓の建設に従事していた数十万の囚人を武装させて反乱軍を次々と打ち破り、項梁などの強敵を討ち取って、一時は秦の命脈を完全に繋ぎ止めたかに見えた。しかし、彼が行き着いた鉅鹿の戦いにおいて、歴史は彼に最も過酷な試練を与える。楚の項羽が、自らの乗ってきた船を沈め、食事を作る釜を打ち砕くという「破釜沈舟」の決死の覚悟で秦軍に襲い掛かったのである。項羽の圧倒的な軍事力と狂気にも似た気迫を前に、章邯は敗北を重ね、ついに殷墟において項羽に降伏を申し入れることとなる。

この章邯の降伏と、于禁の樊城における降伏には、単なる偶然の一致を越えた、軍事史における極めて特異な符合がいくつも存在している。

第一の符合は、彼らが直面した「人間の知恵や既存の戦術では到底抗うことのできない圧倒的な力」の存在である。于禁の前に立ちはだかったのが、秋の長雨と漢水の大氾濫によって平地を水深数丈の泥海へと変えた「天災」であったとすれば、章邯の前に立ちはだかったのは、古今無双の覇王たる項羽の怒濤の進撃という「人災」であった。いずれも、それまでの彼らが培ってきた精緻な陣形や兵法、あるいは部隊の統率力といった軍事的な知見が一切通用しない、理不尽なまでの暴力の顕現であった。

第二の符合にして最大の悲劇の要因は、両者ともに「軍が全滅する前に、莫大な数の兵士を残存させた状態(余力がある状態)で降伏した」という点である。史料によれば、殷墟において章邯が項羽に引き渡した秦軍の将兵は、実に二十万人という天文学的な数に上った。于禁が関羽に引き渡した数万の兵士もまた、国家の主力級の規模である。もし章邯が二十万の兵士に徹底抗戦を命じ、その全員が項羽軍の刃の前に玉砕していれば、あるいは于禁の数万の兵がすべて泥水の中で射殺されるか溺死していれば、彼らは「最後まで戦い抜いた忠臣」として歴史に名を残したかもしれない。しかし彼らは、自軍の完全な崩壊と無益な殺戮を避けるため、最高司令官としての冷徹な合理的判断を下し、あえて自らの武将としての名誉を投げ捨てて「余力」を残したまま敵に屈したのである。そして、この「生き残った大軍」の存在こそが、祖国の朝廷や後世の道徳主義者たちから「まだ戦えたはずなのに命を惜しんだ」と批判される最大の根拠となってしまったのである。

第三の符合は、彼らの降伏が結果的に、降伏を受け入れた敵軍の兵站(補給線)に対して致命的な重圧を与え、歴史の大きな転換点を引き起こしたという戦略的側面である。前節で論じた通り、于禁の数万の捕虜を抱え込んだ関羽は、深刻な食糧不足に陥り、同盟国である孫権の領地の米を強奪するという暴挙に出て、結果的に孫呉の裏切りを招いて自身の破滅へと繋がった。章邯が引き渡した二十万の秦兵もまた、項羽の軍勢の胃袋を完全に崩壊させた。項羽の軍はただでさえ食糧が乏しかった上に、この膨大な数の捕虜を養うことは物理的に不可能であった。さらに、かつて秦の圧政に苦しめられていた諸侯の軍勢と、降伏した秦兵との間で深刻な対立と不安が生じた。その結果、項羽は何を血迷ったか、新安の南において降伏した秦の将兵二十万人を夜襲し、すべて生き埋めにするという、中国史上最悪の虐殺を引き起こしたのである。

『史記』項羽本紀には、この身の毛もよだつような虐殺の記録が次のように記されている。

「楚軍夜撃坑秦卒二十余万人新安城南。」

(楚軍は夜間に攻撃し、秦の兵卒二十余万人を新安の城の南で生き埋めにした)

于禁の降伏兵は関羽の兵站を破綻させて関羽自身を死に追いやり、章邯の降伏兵は項羽の兵站を破綻させて項羽に大虐殺という歴史的悪名を背負わせ、結果的に項羽が天下の民心から完全に見放される最大の原因を作った。両名将の決断は、いずれも敵陣営の内部に巨大な時限爆弾を投げ込む結果となり、極めて逆説的ながら、降伏という行為が敵の戦略的優位を根本から突き崩す劇薬として機能したのである。

さらに第四の符合として、彼らの降伏の場面には、彼らと対比される形で「最後まで徹底抗戦して死んだ同僚の将」が存在していたことが挙げられる。于禁の物語における龐徳の壮烈な死はすでに述べた通りであるが、章邯の物語においても、彼と共に鉅鹿の戦いに臨んだ王離や渉間といった秦の将軍たちがいる。王離は項羽軍の猛攻の前に捕らえられ、渉間は項羽に降伏することを潔しとせず、自ら火中に飛び込んで焼死した。この死を以て忠節を示した渉間の存在は、相対的に章邯の降伏を際立たせる要素となっている。

このように、章邯と于禁は、異なる時代を生きた全く別の人物でありながら、将軍として直面した状況、下した決断、そしてそれがもたらした結果に至るまで、まるで鏡に映したかのような完全な相似形を描いている。しかし、彼らが直面した状況がこれほどまでに似通っているにもかかわらず、後世の歴史書が彼らに与えた評価は、天と地ほどに異なっているのである。ここにこそ、歴史記録というものの本質的な恐ろしさがある。

『史記』の編纂者である司馬遷は、章邯の降伏を決して「不忠の卑怯者」として断罪していない。それどころか、司馬遷は章邯が降伏に至るまでの内面的な苦悩と、どうにもならない絶望的状況を、深い同情と哀惜の念を込めて描写している。『史記』項羽本紀において、章邯が項羽の陣営に赴いて降伏する場面は、次のように情感豊かに描かれている。

「章邯乃出見項羽、見項羽、泣数行下、言趙高。」

(章邯はそこで出て行って項羽にまみえた。項羽を見るなり、涙を幾筋も流して泣き、趙高のことを語った)

司馬遷の筆致は、章邯を「死を恐れた臆病者」ではなく、「祖国のために尽くしながらも、内部の腐敗と外部の圧倒的暴力に挟まれ、涙とともに降伏を選ぶしかなかった悲劇の英雄」として美しく昇華させているのである。司馬遷は、なぜこれほどまでに敗軍の将に対して温かい視線を送ることができたのか。その理由は、前節で陳寿の特異な背景について論じたのと全く同じように、司馬遷自身の個人的な血の涙を流すような経験に裏打ちされている。

司馬遷は、かつて漢の武帝の時代において、匈奴との絶望的な戦いの末に降伏した悲運の将軍、李陵の事件に深く関わっていた。李陵はわずか五千の歩兵で八万の匈奴の騎兵に包囲され、矢が尽き、刀が折れるまで戦い抜いた末に、部下の命を救うため、あるいは後日の再起を期して降伏した。漢の朝廷の百官が手のひらを返して李陵を罵倒する中、司馬遷ただ一人が武帝の御前に進み出て、「李陵は兵力を尽くして戦い、やむを得ず降伏したのである。彼がいかに国に尽くしたかを評価すべきである」と弁護した。しかしこの直言は武帝の逆鱗に触れ、司馬遷は死刑に次ぐ屈辱である宮刑(男根を切り落とされる刑罰)に処せられたのである。

司馬遷は自らの肉体を損なうという凄絶な対価を払ってまで、絶望的な状況下で降伏せざるを得なかった将軍の孤独と真実に寄り添おうとした人間である。彼の目から見れば、外には項羽という怪物が迫り、内には趙高という権臣が暗殺の刃を研いでいる状況下で二十万の兵の命を背負った章邯の苦境は、手に取るように理解できるものであった。司馬遷は、軍人としての合理的な判断や、死にたくとも死ねない指導者の重圧を、「忠義」という一面的な道徳律で裁くことの不条理を誰よりも深く知悉していた。だからこそ彼は、章邯の物語に自らの李陵への思いを重ね合わせ、その苦悩を歴史の真実として永遠に刻み込んだのである。

ひるがえって、陳寿はどうであったか。前節で詳述した通り、陳寿は亡国の臣として新たな晋王朝に仕える身であり、体制が要請する儒教的な「絶対の忠誠」を歴史書において体現しなければならないという、極めて強い政治的重圧の中にあった。司馬遷が「個人の苦悩」に寄り添った歴史家であるならば、陳寿は「国家の道徳」を守護する歴史家であった。陳寿には、于禁が水深数丈の泥海の中で直面した絶望や、数万の部下を見殺しにできないという将軍としての合理的な苦悩を汲み取る余裕も、またその意図も存在しなかった。陳寿にとって重要なのは、「龐徳は死に、于禁は生きて敵に降った」という、道徳的判決を下すための表面的な結果のみであったのである。

もし仮に、歴史の巡り合わせが異なり、司馬遷が『三国志』を編纂していたとしたら、于禁の評価は歴史上においてどのようなものになっていたであろうか。司馬遷の筆によれば、秋の長雨と洪水の描写は天の怒りとしてより劇的に描かれ、武器を失い高台で震える数万の兵士を前にした于禁の葛藤は、血を吐くような悲劇として克明に記されたに違いない。そして、龐徳の死を称賛しつつも、あえて全軍の責任を負って屈辱の土下座を選んだ于禁の姿を、章邯が項羽の前で涙を流したのと同じように、大いなる悲哀を込めて描き出したはずである。そして曹丕による陵墓での陰湿な仕打ちに対しても、権力者の冷酷さとして厳しい批判の目を向けたであろう。于禁は決して「不忠の卑怯者」などではなく、「天災と君主の冷酷さに引き裂かれた悲運の名将」として、全く異なる永遠の命を与えられていたに違いないのである。

章邯と于禁という二人の名将の比較から浮かび上がるのは、戦争という極限状況における「合理性」が、時として社会の求める「道徳」と激しく衝突するという普遍的な悲劇の構造である。さらに恐ろしいのは、その人間の真の苦悩や合理的な決断というものが、後世の歴史家の持つ個人的な経験や、その時代の政治的な偏向という「筆の暴力」によって、いかようにも書き換えられ、全く異なる二つの評価に分断されてしまうという歴史の現実である。

于禁は龐徳に劣っていたから汚名を着せられたのではない。彼の悲劇の真髄は、自然の猛威によって武将としての選択肢をすべて奪われたことと、その苦渋の決断を正当に評価し得る「司馬遷」という理解者を、自らの時代の歴史家として持ち得なかったことにある。陳寿の厳格すぎる筆致という呪縛によって、于禁の合理主義は封印された。しかし、章邯の物語という歴史の鏡を通すことによって、我々は陳寿の記述の背後にある偏向を突き抜け、于禁という男が背負った名将としての真の重圧と、その大いなる悲劇の構造を、千七百年の時を超えて鮮明に捉え直すことができるのである。


【引用文献・史料】

司馬遷撰『史記』項羽本紀

司馬遷撰『史記』秦始皇本紀

班固撰『漢書』司馬遷伝(報任少卿書)

陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書第十七 張楽于張徐伝

陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書第十八 二李臧文呂許典二龐閻伝

司馬光撰『資治通鑑』秦紀・漢紀・魏紀

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