第2節 陳寿『三国志』の厳格な視線とその背景
歴史の記述というものは、決して過去に起きた客観的な事実の無機質な羅列に留まるものではない。それは記述者である歴史家個人の持つ価値体系、彼が身を置く政治的立場、そして彼が生きた時代の権力が要請する道徳的規範によって、不可避的に取捨選択され、特定の色彩を帯びて後世へと伝えられる。曹魏の五将軍の筆頭と謳われ、軍の法と規律の権化として畏怖されながらも、樊城の戦いにおけるただ一度の降伏を境にその評価を地の底へと落とした于禁という人物を語る上で、我々は避けて通れぬ一人の歴史家と対峙しなければならない。正史『三国志』の編纂者であり、于禁に対して決定的な断罪を下した陳寿である。彼が于禁に向けて放った峻烈なまでの批判の眼差しと、その背後に隠された極めて複雑な政治的事情および個人的な葛藤を紐解くことは、于禁という悲劇の名将に千七百年もの長きにわたってかけられてきた歴史的呪縛を解き放つための、最も重要な鍵となる。
陳寿は『三国志』魏書巻十七において、張遼、楽進、張郃、徐晃、そして于禁の五人を一巻にまとめ、曹操の覇業を軍事面から支えた多大な功臣として高く評価している。彼らがいなければ曹魏の中原制覇は成り立たなかったという点において、陳寿は彼らの軍事的な才能を正当に記録している。しかし、その巻の末尾に記された総評において、陳寿は于禁ただ一人に対してのみ、その輝かしい功績をすべて打ち消すかのような極めて過酷な断罪を行っているのである。
「禁最号毅重、然臨難失節、名亦由是損焉。」
(于禁は最も剛毅で重厚であると言われていたが、危難に際して節操を失った。名声が損なわれたのもまた、これによるものである)
この「臨難失節(危難に臨んで節操を失う)」という四文字こそが、後世の知識人や民衆の于禁に対する見方を決定づけ、彼を不忠の将軍として歴史の暗部へと縛り付け続けてきた、歴史家による冷酷な判決文であった。陳寿は、于禁が三十年の長きにわたって築き上げてきた軍律の体現者としての威名や、数多の戦場で流した血と汗を認めつつも、最期の絶望的な瞬間において武将としての絶対的な道徳規範を放棄し、敵に命乞いをしたというただ一つの結果を、歴史の法廷において決して許さなかったのである。
しかし、前章までに論証してきた通り、樊城の戦いにおける于禁の降伏は、水深数丈という抗いがたい天災と軍事機能の完全な喪失を前にして、数万の部下の命を救うために総大将が自己の名誉を犠牲にして下した、究極の合理的判断であった可能性が極めて高い。ではなぜ陳寿は、この戦場における冷徹な合理性や、指導者としての苦渋の責任という視点を一切排除し、彼をここまで容赦なく道徳的な側面からのみ切り捨てたのか。そこには、陳寿自身の数奇な生涯と、彼が歴史書を編纂した西晋という時代の特殊な政治的背景が、色濃く影を落としているのである。
陳寿はもともと、劉備が建国した蜀漢の家臣であった。彼は益州の出身であり、諸葛亮からも厚い信任を受けた蜀漢の代表的な学者にして名臣である譙周に師事した、生粋の文人官僚である。陳寿の父親はかつて諸葛亮の北伐に従軍したが、馬謖が引き起こした街亭の戦いでの致命的な敗戦に連座し、髠刑(髪を剃り落とすという当時の屈辱的な刑罰)に処されたという記録が『晋書』に残されている。陳寿自身もまた、蜀漢において順調に官職に就いたものの、晩年の劉禅の治世において絶大な権勢を振るっていた宦官の黄皓に媚びへつらわなかったため、度重なる左遷の憂き目に遭い、不遇の時代を過ごした。権力者に阿ることなく自らの筋を通したこの若き日の苦難の経験は、陳寿の精神の根底に「不義を許さず、権力に屈しない」という強固な倫理観を植え付けたと推測される。
しかし、彼が于禁の降伏に対して並外れて厳格な評価を下した真の理由は、蜀漢の滅亡という国家的な悲劇に際して彼自身が直面した、さらに深く重い政治的な葛藤に求められる。景耀六年、魏の最高権力者である司馬昭の命を受けた鄧艾の軍勢が、険しい山を越えて蜀漢の首都である成都に迫った。この国難に際して、徹底抗戦を主張する声もある中、劉禅に対して一切の抵抗を放棄し、魏に降伏することを最も強く進言したのが、他ならぬ陳寿の恩師である譙周であった。結果として劉禅は自ら縛に就き、蜀漢は滅亡した。この瞬間から、陳寿を含む蜀漢の旧臣たちはすべて、己の国家を最後まで守り抜けなかった「降伏者」「亡国の臣」として、勝者である魏、そしてその直後に成立した西晋王朝に仕えるという、極めて屈辱的で不安定な立場に置かれることとなったのである。
この「降伏によって命を永らえた」という拭い去ることのできない重い負い目こそが、陳寿の歴史記述の筆先を、于禁に対して異常なまでに鋭くさせた最大の要因ではないか。陳寿は、自らの恩師が主君に降伏を勧め、自らもまたそれに従って新しい王朝で栄達の道を歩んでいるという事実に対して、知識人として深い自己矛盾と内面的な恥辱を抱えていたはずである。だからこそ、彼は過去の歴史上の人物を評価する際、降伏という行為によって名誉を汚した者、あるいは主君への忠義を最後まで貫けなかった者に対して、あえて誰よりも厳しい筆致で臨む必要があった。それは、晋という新たな王朝に仕える降臣としての陳寿にとって、自らの内面にある「正義」と「忠節」を外部に対して声高に誇示するための、悲痛な防衛本能であったとも解釈できるのである。
さらに、陳寿が歴史を編纂した西晋王朝という国家の成り立ちが、彼の筆を道徳的教条主義へと縛り付けた。西晋の初代皇帝である司馬炎は、祖父の司馬懿、父の司馬昭が曹魏の皇帝から徐々に実権を奪い取り、最終的に皇帝の座を簒奪するという形で国家を成立させた。かつて曹操と曹丕が後漢の献帝に対して行った簒奪劇を、そっくりそのまま曹魏に対してやり返したのである。このような力による簒奪によって成立した王朝は、常に自らの正当性の欠如というアキレス腱を抱えている。もし実力主義や状況に応じた合理的な裏切りを肯定してしまえば、今度は晋の将軍たちが司馬氏を裏切って新たな王朝を建国することを正当化しかねない。
そのため、晋王朝は国家の統治思想として、儒教的な「絶対的な忠義」と「親への孝」を極端なまでに奨励し、家臣に対して自己犠牲を伴う君主への服従を強要した。このような息の詰まるような思想的統制の時代において、公的な歴史書の編纂を任された陳寿が、兵士の命を救うために降伏した于禁の行動を「合理的な判断であった」などと擁護することは、政治的に絶対に不可能であった。もし于禁の降伏に一定の理解を示せば、それは軍事的な利害や状況次第で臣下の忠義が揺らぐことを肯定することに繋がり、晋王朝が必死に構築しようとしていた統治の根幹を揺るがす危険思想と見なされかねなかったからである。陳寿は、亡国の臣として猜疑の目に晒される晋の宮廷において生き残り、歴史家としての地位を保つために、国家が求める「不変の忠義」を熱烈に称揚し、その対極にある于禁を不忠の典型的な見せしめとして完膚なきまでに断罪しなければならなかったのである。
この陳寿の歴史家としての姿勢は、かつて『史記』を著した司馬遷のそれと決定的な対照をなしている。司馬遷は、匈奴との戦いで絶望的な状況に陥り、矢が尽きて降伏した李陵の行動を「やむを得ないことであった」と皇帝の面前で弁護し、その結果として宮刑という耐え難い肉体的屈辱を受けた。司馬遷は自らの血と苦痛をもって、国家の論理よりも現場の将軍の合理性と人間的な苦悩に寄り添ったのである。だからこそ司馬遷は、秦の章邯が項羽に降伏した際にも、彼の置かれた絶望的な状況を丁寧に描き、悲劇の英雄としての側面を後世に残した。しかし陳寿には、司馬遷のような体制に逆らってまで個人の真実に寄り添う道を選ぶことはできなかった。彼は儒教的秩序を守るための守護者としての姿勢を崩さなかった。合理主義に生きた将軍の苦悩は、道徳主義に殉じた歴史家の筆によって、無惨に塗りつぶされたのである。
陳寿の記述の巧妙かつ残酷な点は、『三国志』において于禁の降伏を、同じ戦場で死を選んだ龐徳の殉死と意図的に極端な対比をもって配置している点である。陳寿は龐徳の伝において、その死を最大限の賛辞をもって称賛している。
「徳常引簒中、言必忠信、其勇冠一軍、名重当時、末路不撓、誠烈士哉。」
(龐徳は常に忠信を旨とし、その勇気は一軍の冠であり、名声は当時に重きをなした。最期まで屈することなく、誠に烈士である)
この新参の降将への絶賛は、その直前に置かれた古参の名将・于禁への断罪と表裏一体の構造を持っている。陳寿は、龐徳が魏のために命を捧げたという事実を極端に美化して強調することで、三十年の功臣である于禁の降伏がいかに弁解の余地のない、醜悪で救いようのない背信であるかを、読者の脳裏に焼き付けようとしたのである。前章で確認した通り、龐徳が死を選んだのは魏に残した家族を処刑から守るためという強烈な政治的必然性があり、于禁が降伏したのは部下の命を救うためであった。しかし陳寿は、そうした戦場の複雑な力学や実利的な背景を一切切り捨て、彼らをただ「死による忠義の完成」か「生による節操の喪失」かという、極めて単純化された二極的な道徳の天秤にのみかけた。
陳寿が于禁を評する際に用いた「毅重(剛毅で重厚)」という言葉には、底知れぬ皮肉が込められている。于禁は生涯を通じて他者に対して厳格であり、法を曲げずに旧友を処刑することすら厭わなかった。陳寿は、他者にそこまでの厳格なる死を求めた男が、自分自身の危難に際しては命を惜しんで節操を曲げたという、その人間の抱える醜い「矛盾」こそを、最大の恥辱として後世に提示したのである。これは、法治主義と軍事的合理性を尊んだ武人の論理と、道徳的完結性のみを人間の価値の絶対基準とする文人官僚の論理との、永遠に埋まることのない決定的な決裂を示している。
于禁の生涯は、樊城の泥水の中で軍人としての名誉を失い、高陵の壁画の前で精神を破壊され、そして死後、歴史家である陳寿の筆によって三度目の、そして最も長く続く死を与えられたと言える。歴史家が事実の中から何を選び取り、どのような価値判断を下すかによって、一人の人間が千載にわたって背負う影の深さが決まる。陳寿『三国志』における于禁への厳格すぎる視線は、彼が生きた時代の政治的要請と、陳寿自身の個人的な負い目が生み出した、極めて偏向的な歴史の呪縛であった。我々は、この歴史家の先入観という分厚い道徳の霧を払い除けることで、初めて「曹魏の柱石」としての于禁の真実の姿と、彼が極限状況において下した痛ましい決断の真の重みを、現代の視点から再発見することができるのである。
【引用文献・史料】
陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書巻十七 張楽于張徐伝
陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書巻十八 二李臧文呂許典二龐閻伝
常璩撰『華陽国志』
房玄齢等撰『晋書』陳寿伝
司馬光撰『資治通鑑』魏紀




