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悲劇の名将・于禁の再評価 ——合理性と忠義の狭間で  作者: えいの
第3章 歴史家による評価のバイアスと呪縛

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第1節 時代の価値観と「余力」がもたらした悲劇

前章において我々は、于禁の降伏が単なる死への恐怖から生じたものではなく、平地を水深数丈の泥海へと変えた未曾有の大洪水という不可抗力と、それに伴う軍事機能の完全なる喪失という現実を前に、残存する数万の部下の命を救うために下された極めて苦渋に満ちた合理的な決断であったことを論証した。しかし、戦場における将帥の冷徹な合理性が、必ずしもそのまま後世の歴史的評価や同時代の社会的な受容と合致するわけではない。本節では、于禁の合理的な選択がいかにして当時の社会規範と激しく衝突し、彼を回復不可能な汚名へと追いやったのかを、当時の価値観と「余力」という概念を中心に考察する。また、降伏後に彼が辿った他国での屈辱と、祖国における凄惨な最期を史料に基づき詳述し、彼が直面した悲劇の全貌を浮き彫りにする。

于禁に対する歴史的非難の最大の根拠は、「彼にはまだ戦う余力があったにもかかわらず、己の命を惜しんで降伏した」という一点に集約される。当時の許都にいる曹操や朝廷の百官、そして後世の歴史家たちの目には、于禁が「数万の兵士を残存させたまま敵の軍門に降った」という表面的な結果のみが強く焼き付いていた。前節で述べた通り、この数万の兵士は武器を失い、食糧を失い、陣形を組むための平地すら失った無力な遭難者の群れであり、軍事的な意味での「戦力」では到底なかった。しかし、遠く離れた安全な後方にあって戦場の泥水を知らない者たちから見れば、兵士の命が物理的に存在している以上、それは「まだ戦局を覆すために使うべきであった余力」として映るのである。

もしあの絶望的な状況において、于禁が自らの命と引き換えに全軍に玉砕を命じ、数万の兵士全員が関羽軍の雨のような矢に射抜かれて死ぬか、あるいは濁流に呑まれて全滅していれば、彼は疑いようもなく悲劇の名将として歴史に名を残していたであろう。「軍が一人残らず全滅した」という結果は、彼らが最後まで戦い抜いたことの何よりの証明となるからである。しかし于禁は、法と規律を重んじる最高司令官としての責任感から、部下を無益な死から救い出してしまった。皮肉なことに、彼が将軍としての責務を果たして守り抜いた「数万の兵士の命」こそが、外部からは「戦局を立て直すための余力」と見なされ、降伏という行為の卑劣さを裏付ける最大の証拠となってしまったのである。彼が合理主義者として部下の命を救ったこと自体が、当時の社会規範における彼の罪状を決定づける致命的な要因となったと言える。

さらに、于禁を苦しめたのは曹魏という祖国における評価だけではなかった。彼の降伏という行為は、国境を越えて当時の中華全土に広がりつつあった新たな倫理観、すなわち「臣下としての絶対的な忠義」という思想的規範の前に、容赦なく断罪されることとなる。

樊城の戦いで関羽の捕虜となり、江陵へと送られた于禁の運命は、その年の冬にさらなる暗転を見せる。背後から同盟を破棄して荊州へ侵攻してきた孫権の軍勢、すなわち呂蒙らによって関羽が討ち取られ、江陵が陥落したのである。これにより、于禁は関羽の捕虜から一転して、今度は孫権の捕虜となった。孫権は、かつて中原にその名を轟かせた曹操軍の最高幹部である于禁を丁重に扱い、自らの乗る馬と並べて乗馬させるなど、表面上は手厚く遇した。しかし、孫権の配下である呉の臣僚たちは、于禁に対して極めて冷酷で侮蔑的な態度をとった。その代表的な人物が、剛直な儒学者としても知られる虞翻である。

『三国志』呉書虞翻伝には、孫権と並んで馬に乗る于禁を見た虞翻が、群臣の面前で于禁を激しく面罵した逸話が記録されている。

「翻乗馬呼禁曰、降虜何敢与吾君斉馬首乎!覚鞭欲撃禁、権呵止之。」

(虞翻は馬に乗って于禁に向かって叫んだ。「降伏した捕虜の分際で、どうして我が君と馬の首を並べてよいものか!」そして鞭を振り上げて于禁を打ち据えようとし、孫権がこれを叱りつけて止めさせた)

さらに後日、孫権の船宴において于禁が過去を悔やんで涙を流した際にも、虞翻は「お前は偽りの涙を流して許しを請うつもりか」と容赦なく罵倒し続けている。そして虞翻は孫権に対し、「于禁を斬り捨てて、二心を持つ者(主君を裏切る者)への戒めとするべきである」とまで進言しているのである。敵国である呉の臣下から見ても、かつての主君である曹操を裏切って生き延びた于禁は、武人の風上にも置けない卑劣な男であり、処刑されて当然の存在であった。建安末期という時代は、曹魏、蜀漢、孫呉という三つの政治勢力がそれぞれに国家としての体裁を整えつつあり、各国の君主は家臣に対して国家への絶対的な忠誠を強く求め始めていた。于禁の降伏は、曹魏一国の問題に留まらず、時代全体が要請する「忠義」という普遍的な道徳規範に対する重大な背信行為として、敵国の人間からすらも激しい憎悪と軽蔑の対象となったのである。

その後、曹操がこの世を去り、息子の曹丕が後を継いで後漢の献帝から禅譲を受け、正式に魏の初代皇帝(文帝)として即位する。孫権は一時的に魏に対して臣従の姿勢を示し、その証として黄初二年、長らく呉に留め置かれていた于禁を魏へと送り返した。樊城の戦いから実に二年以上の歳月が流れていた。かつて軍の最高権限である仮節鉞を帯び、三十年にわたって曹魏の精鋭を統率した不敗の名将は、異国での過酷な捕虜生活と絶え間ない精神的屈辱の末に、鬚髪は真っ白になり、顔は痩せこけ、見る影もなく老いさらばえた姿となってついに祖国の土を踏んだ。

『三国志』魏書于禁伝は、帰国した于禁と曹丕の対面の様子を次のように記している。

「帝引見禁、鬚髪皓白、顔悴泣涕、頓首。帝慰諭以荀林父、孟明視故事、拝為安遠将軍。」

(皇帝は于禁を引見した。于禁の鬚髪は真っ白であり、顔は憔悴し、涙を流して地に頭をこすりつけた。皇帝は古の荀林父や孟明視の故事を引いて彼を慰め諭し、安遠将軍に任命した)

曹丕は、地に額を擦りつけてむせび泣く老将に対し、春秋時代の晋の荀林父や秦の孟明視といった、一度は取り返しのつかない大敗を喫しながらも、後に許されて名将として名を残した古人の例を挙げ、極めて温和な言葉で彼を慰藉した。さらに安遠将軍という将軍位まで授け、一見すると于禁の過去の罪を完全に赦免し、その長年の功労に報いたかのように振る舞ったのである。祖国に帰れば即座に処刑されることすら覚悟していたであろう于禁にとって、この若き新皇帝の寛大な処置は、どれほど胸を撫で下ろすものであっただろうか。しかし、この表面的な温情こそが、曹丕が仕掛けた極めて陰湿で残酷な罠であった。

曹丕という人物は、父である曹操とは異なり、極めて猜疑心が強く、一度抱いた恨みや軽蔑を決して忘れない執念深い性格の持ち主であった。彼は皇帝として、新たに建国された魏という国家の絶対的な威信と、臣下からの混じり気のない純粋な忠誠を確固たるものにする必要があった。その曹丕の目から見て、国家の危機において父を裏切り、敵に命乞いをした于禁という存在は、万死に値する国家の汚点そのものであった。曹丕は法に基づいて于禁を処刑することもできたが、孫権からの恭順の使者として送り返されてきた彼を公に処断することは、外交上の不体裁を招く恐れがあった。そこで曹丕は、物理的な死刑よりもさらに残酷な、精神的な公開処刑という手段を用いたのである。

曹丕は于禁に対し、北方の異民族地帯への使者に赴くよう命じ、その出立に先立って、かつての主君である曹操の陵墓(高陵)へと赴き、墓前での報告を行うよう指示した。この「北使(北方への使者)」という任命自体が、死線をさまよい身も心もぼろぼろになった老将を、過酷な辺境へと追いやる冷酷な仕打ちであった。しかし于禁は、君主の墓参という名誉ある役目を与えられたと信じ、曹操の霊前に伏して自らの不忠を詫び、同時に曹丕の寛大さに感謝を捧げるつもりで高陵の拝殿(陵屋)へと足を踏み入れたに違いない。しかし、そこに待っていたのは、彼の残されたわずかな自尊心と生命力を根こそぎ奪い去る、凄惨な光景であった。

「帝思欲遣禁北使、欲令過陵屋。陵屋中画関羽戦克、龐徳憤怒、禁降服之状。禁見、慚恚発病薨。」

(皇帝は于禁を北方の使者に遣わそうと考え、彼に陵屋へ立ち寄るよう命じた。陵屋の中には、関羽が戦いに勝った姿、龐徳が憤怒して戦う姿、そして于禁が降伏して服従する有様が壁画として描かれていた。于禁はこれを見て、慚恚のあまり発病して死んだ)

拝殿の壁一面に、曹丕の命によってあらかじめ精緻に描かれていたのは、樊城の戦いにおけるあの決定的な瞬間であった。意気揚々と勝ち誇る関羽。死を恐れずに烈火のごとく憤怒し、忠義を貫いて死にゆく龐徳。そして、その足元で泥に塗れ、惨めに頭を垂れて敵に命乞いをする于禁自身の醜悪な姿である。この壁画は、単なる戦の記録などではない。曹魏という国家が、そして新皇帝である曹丕が、于禁という人間の生涯をどのように評価し、どのように蔑んでいるかを示す、国家からの公的な「死刑宣告」にして「永遠の呪い」であった。

自らの三十年の忠勤がすべて無に帰し、自らが守ろうとした国家からこれほどまでに深く憎悪され、軽蔑されていたという冷酷な事実を、亡き主君である曹操の墓前という最も神聖な場所で突きつけられたのである。于禁の心に生じた衝撃は、想像を絶するものであった。彼は皇帝の言葉を信じて安堵していた直後に、逃げ場のない絶望のどん底へと叩き落とされたのである。「慚恚(恥じ入って激しく怒り悲しむこと)」という言葉が示す通り、于禁は激しい羞恥と絶望に苛まれ、精神を完全に破壊された。病に倒れた彼は、再び起き上がることもできず、そのまま誰にも看取られることなく惨めな死を遂げた。かつて天下にその勇名を轟かせ、法と規律の権化として恐れられた五将軍の筆頭は、敵の刃によってではなく、自らが生涯を捧げた祖国の君主の陰湿な悪意と、時代の価値観という目に見えない刃によって、その命を絶たれたのである。

于禁の死後、曹丕は彼に対して「厲侯」という諡号を贈った。古代中国の諡法(おくりなの基準を定めた法則)において、「厲」という文字は「殺戮して無辜を害す」「暴虐にして親しまず」といった極めて否定的な意味を持つ。于禁にこの文字が選ばれたのは、彼が単に悪逆非道であったからではない。かつて自軍の兵士を厳格に律し、降伏した旧友の昌豨を容赦なく法に照らして斬り捨てるなど、他者に対して極めて冷酷で情に欠ける振る舞いをしてきたにもかかわらず、いざ自分自身が絶望的な危地に陥ると、武将としての節操を捨てて敵に命乞いをしたという、その「過去の苛烈さと最終的な卑屈さの矛盾」を痛烈に非難するものであった。すなわち、曹魏の公式記録において、于禁は「法を盾に他者を殺しながら、己の命は惜しんで国家への恩義を裏切った、節義なき冷酷な将軍」として永遠に位置づけられたのである。

樊城の戦いにおいて、于禁は残存する部下の命を救うという合理的な判断を下した。しかし、彼が将軍としての責任を果たそうとしたその行為は、「余力を残したままの降伏」として時代の価値観に激しく指弾され、敵国からも祖国からも徹底的に否定される結果を招いた。彼が直面した悲劇は、軍事的な合理性と、国家が求める精神的な忠義という、決して交わることのない二つの価値観が最も残酷な形で衝突した結果生み出されたものであり、歴史の評価がいかに不条理で、勝者と体制側の論理によって歪められるかを示す、あまりにも重い教訓と言えるであろう。


【引用文献・史料】

陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書第十七 張楽于張徐伝(于禁伝)

陳寿撰、裴松之注『三国志』呉書第十二 虞陸張駱武吾朱伝(虞翻伝)

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