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悲劇の名将・于禁の再評価 ——合理性と忠義の狭間で  作者: えいの
第2章 降伏の真意と合理性

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第1節 抗いがたい天災と絶望的状況

前章において我々は、于禁という将軍が曹魏という国家体制の中でいかに重きをなし、厳格な法の執行者として絶対的な威厳を誇っていたか、そして樊城の戦いにおける降伏が、その輝かしい名声と権威をいかに無惨に破壊したかを確認した。彼に向けられた後世からの痛烈な非難、そして主君である曹操からの深い失望は、彼が「戦う余力を残したまま敵に降伏した」という表面的な結果に起因している。しかし、歴史の深層を正しく理解するためには、建安二十四年秋の樊城郊外において、于禁と彼の率いる七つの軍団が実際にどのような物理的、かつ戦術的な絶望に直面していたのかを、戦場の現実的視座から極めて冷徹に分析しなければならない。本節では、于禁の降伏を単なる「臆病」や「不忠」といった個人の道徳的欠陥に帰するのではなく、人間の力では到底抗うことのできない自然の猛威と、それによってもたらされた軍事的な完全なる機能不全という観点から、彼が直面した二者択一の過酷さを論証する。

樊城の戦いにおいて于禁の運命を決定づけたのは、関羽の卓越した兵法でも、曹魏軍の士気の低迷でもなかった。それは、天がもたらした歴史的な異常気象であった。建安二十四年の秋八月、荊州北部一帯を襲った長雨は、通常の季節的な降雨の域をはるかに超えるものであった。連日にわたって空から降り注ぐ大量の雨水は、襄陽と樊城の側を流れる巨大な大河である漢水を限界点まで増水させた。そしてついに、漢水はその堤防を破り、巨大な濁流となって平野部に布陣していた于禁の七軍に襲い掛かったのである。

当時の状況を記録した史料は、この水害の規模が軍隊という組織を根本から破壊するに十分な、破滅的なものであったことを示している。

『三国志』魏書于禁伝には、次のような簡潔にして戦慄すべき一文が残されている。

「秋、大霖雨、漢水溢、平地水数丈、禁等七軍皆没。」

(秋、大霖雨が降り、漢水が溢れ、平地の水は数丈の深さとなり、于禁らの七軍は皆水没した)

また、『三国志』蜀書関羽伝にも同様の記述がある。

「秋、大霖雨、漢水汎溢、禁所督七軍皆没。禁降羽、羽又斬将軍龐徳。」

(秋、大霖雨が降り、漢水が汎溢し、于禁が督する七軍は皆水没した。于禁は関羽に降伏し、関羽はまた将軍の龐徳を斬った)

ここで最も注目すべきは「平地水数丈」という事実である。古代中国の度量衡において、一丈は約二・三メートルから二・四メートルに相当する。それが「数丈」であるということは、于禁の軍勢が野営を張っていた平野部一帯が、優に水深五メートルから七メートルを超える巨大な泥の湖と化したことを意味している。床下浸水や、膝下までの泥濘といった生易しいものではない。家屋は完全に水没し、大木すらも呑み込まれるほどの深さである。

この水深において、軍隊の戦闘能力はどのように変化するだろうか。甲冑を着込み、武器を持った兵士たちが五メートルを超える水深に投げ出されれば、重装備はそのまま命を奪う鉄の重りと化す。兵士たちは溺死を免れるために、兜や鎧を脱ぎ捨て、手にした弓や槍を手放さざるを得なかったはずである。さらに、当時主力であった合成弓は、膠などの動物性接着剤を用いて作られていたため、長期間の雨や水没によって完全に崩壊し、使い物にならなくなる。軍馬は流され、あるいは足場を失って溺れ、兵站を支える膨大な食糧や軍需物資もすべてが泥水の下に消え去った。

かろうじて生き残った将兵たちは、水没を免れたわずかな高台や、堤防の上の狭小な空間に密集して逃げ延びるほかなかった。この時点で、于禁が率いていた「精鋭七軍」という組織は、軍隊としての機能の九割以上を喪失していたと言ってよい。部隊間の連絡は濁流によって遮断され、陣形を組むための平地は存在せず、遠距離から敵を牽制するための弓矢も、接近戦を行うための武装も失われていた。彼らは将軍の指揮下にある軍隊ではなく、単に濁流から逃れて高所にしがみつく、武装解除された数万の遭難者の群れへと成り果てていたのである。

この完全なる無力化に追い打ちをかけたのが、敵将である関羽の周到な準備と地理的優位性であった。関羽は長年荊州に駐屯し、長江や漢水といった水系を利用した水上戦術に精通していた。彼はこの長雨と増水を千載一遇の好機と捉え、あらかじめ建造させていた大型の軍船や無数の小舟を繰り出し、水没を免れた高台に取り残された于禁の残存部隊を、水上から完全に包囲したのである。

『三国志』には「羽乗大船就掩撃禁等」とある。関羽の軍勢は、安全で乾燥した大型船の甲板から、高所に密集して身動きの取れない于禁の兵士たちを見下ろす形となった。関羽の兵たちは完全武装を保ち、弓の弦も乾いており、船上には十分な食糧と矢玉が積載されていたであろう。対する于禁の兵士たちは、泥水に塗れ、飢えと寒さに凍えながら、無防備な肉体を敵の矢面に晒すことしかできなかった。于禁軍の兵士の大半は中原の出身であり、水泳や水上戦闘に不慣れな北方の人間であったことも、この絶望的な状況をさらに悪化させた。彼らにとって、足のつかない深い水底と、そこを自在に駆け巡る関羽の軍船は、圧倒的な恐怖の対象でしかなかったはずである。

後世の歴史家や当時の人々が于禁を非難した最大の論拠は、「彼にはまだ三万余りとも言われる多数の兵士が生き残っており、戦う余力があったにもかかわらず降伏した」という点にある。しかし、上述した物理的な戦場の現実を踏まえれば、この「余力」というものが、いかに実態の伴わない虚像であったかが理解できるであろう。確かに、生物として生きている兵士の頭数は数万に上ったかもしれない。だが、武器を持たず、陣形も組めず、身動きすら取れない兵士の群れは、軍事的な「戦力」とは呼べない。それは単に、関羽軍の弓矢の的としてそこに置かれた、数万の肉の塊に過ぎなかったのである。

総大将である于禁は、この凄惨な泥海の中で、究極の二者択一を迫られることとなった。

第一の選択肢は、副将の龐徳が選んだような「徹底抗戦」、すなわち全軍玉砕の道である。もし于禁が仮節鉞を持つ最高司令官として、全軍に対して死を賭しての突撃、あるいは抵抗を命じていればどうなっていたか。武器を持たない兵士たちは、泥水の中を泳いで関羽の大船に取り付こうとし、そのほとんどが水に呑まれるか、船上からの雨のような矢を浴びて一方的に殺戮されたであろう。あるいは、高台に留まったまま飢えと寒さに耐え、関羽軍の射撃の的になり続け、いずれは全員が死に絶えるのを待つことになったはずである。この選択は、曹魏の精鋭数万を完全に消滅させることを意味していた。しかし、当時の儒教的価値観や武人としての美学に照らせば、この「無抵抗のまま全員が死ぬこと」こそが、主君への忠義を全うする名誉ある結末と見なされる可能性が高かった。于禁自身の名誉は守られ、彼は龐徳とともに忠義の烈将として歴史に名を刻んだであろう。

第二の選択肢が、「降伏」である。これは、軍事的な勝利が完全に不可能であることを冷徹に認め、戦闘行為を放棄して敵の軍門に降るという道である。この選択は、曹魏という国家体制の権威を失墜させ、総大将である于禁自身の三十年にわたる名誉を泥に塗れさせる、極めて屈辱的なものであった。しかし、この選択がもたらす唯一にして最大の恩恵は、高台に取り残された「数万の将兵の命が救われる」ということであった。

于禁は、曹魏の法を誰よりも厳格に執行してきた将軍である。軍律に反する者、降伏を試みた者(旧友の昌豨など)を自らの手で処断してきた彼にとって、「降伏」という行為が自身の立場と名誉をいかに決定的に破壊するかは、誰よりも彼自身が痛感していたはずである。それでもなお、彼は第一の選択肢である「全軍の無意味な玉砕」を退け、全責任を一身に背負って関羽に降伏する道を選んだ。

この決断を、単なる「死への恐怖」や「自己保身」から出た臆病な行為と断じることは、軍事の現実を知らない者の机上の空論と言わざるを得ない。真の自己保身を考えるならば、彼は一部の兵を見捨ててでも自らだけ小舟で逃亡を試みるか、あるいは名誉を守るために自刃を選ぶ方が、後世の評価という点でははるかに安全であった。しかし于禁は、自らの名誉ある死よりも、全軍を降伏させるという最も泥に塗れた道を選んだ。それは、武器も食糧も失い、完全に包囲された状態において、指導者として残存する将兵の命を一つでも多く明日へ繋ぐための、戦術の枠を超えた究極の「合理的判断」であったと評価すべきではないか。

自然の猛威によって生み出された水深数丈の泥海は、武人としての気骨や精神論で乗り越えられる障害ではなかった。樊城郊外における于禁の敗北は、軍と軍との衝突による敗北ではなく、天災による一方的な軍事機能の剥奪であった。その絶望的な状況下において、彼は自らの命を惜しんだのではなく、自らの輝かしい名誉と三十年の経歴を犠牲にして、数万の兵士の命を買い取ったのである。「抗いがたい天災」と「完全なる軍事力の喪失」という二つの冷酷な事実こそが、于禁を降伏へと追い込んだ真の要因であり、そこに戦う「余力」などというものは、最初から微塵も存在していなかったのである。


【引用文献・史料】

陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書第十七 張楽于張徐伝(于禁伝)

陳寿撰、裴松之注『三国志』蜀書第六 関張馬黄趙伝(関羽伝)

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