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悲劇の名将・于禁の再評価 ——合理性と忠義の狭間で  作者: えいの
第1章 名将の光と影

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第2節 転落の象徴「樊城の戦い」

建安二十四年、天下の情勢は極めて重大な歴史的転換点を迎えていた。前年より長きにわたって繰り広げられた漢中における激戦の末、ついに劉備は曹操の軍勢を退け、漢中王を自称するに至る。この敗北は、官渡の戦いにおいて中原の覇権を確立して以来、常に天下の軍事的な主導権を握り続けてきた曹魏陣営にとって、かつてないほどの深刻な打撃であり、その威信を大きく揺るがす事態であった。この曹魏陣営の動揺という絶好の機に乗じ、荊州に駐屯していた劉備軍の筆頭将軍である関羽が、北上して大規模な軍事行動を起こしたのである。その最大の目標は、曹魏による荊州支配の絶対的な要衝であり、中原の心臓部を守る防衛線として計り知れない戦略的価値を持つ襄陽および樊城の奪取であった。仮にこの二つの巨大な城郭が陥落し、関羽の誇る水陸の精鋭軍に漢水の防衛線を突破されるようなことがあれば、敵軍の鋒先はそのまま帝都である許都の周辺にまで直接的な脅威を及ぼすこととなる。当時、この最重要拠点である樊城の防衛を任されていたのは曹操の従弟であり、曹魏陣営において最高の守将と謳われた曹仁であった。しかし、水上機動力に長けた関羽の軍勢の猛攻は凄まじく、曹仁は城内に完全に封じ込められ、樊城は外部からの連絡も絶たれたまま落城の危機に瀕することとなる。

この新興の国家体制の存亡すら揺るがしかねない重大事態に対し、曹操が救援軍の総大将として白羽の矢を立てたのが、他ならぬ于禁であった。前節で詳述したように、当時左将軍という極位にあり、臣下として最高位の軍権である仮節鉞を授けられていた于禁は、曹魏陣営における実質的な野戦最高司令官と呼ぶべき存在であった。この危地に際して彼に委ねられたのは、曹魏の中軍から選抜された精鋭兵を七つの軍団に編成した「七軍」という大規模な軍勢であり、その総兵力は数万に及んだと言われている。于禁を総大将とし、これほどまでの規模の中央軍を惜しみなく投入したという事実は、曹魏が持てる最大の軍事力をこの樊城防衛戦に傾注したことを意味していた。曹操は于禁の卓絶した統率力と不敗の戦歴に、自身の覇業の命運を託したのである。

于禁が率いる救援の七軍の中には、後に彼と数奇な運命を極端に対比されることとなる猛将、龐徳の姿があった。龐徳はもともと涼州の強大な軍閥である馬超の腹心として勇名を馳せた武将であり、漢中の戦いを経て曹操に降伏し、臣従したばかりの身であった。そのため、関羽との天下の帰趨を決する決戦を前にして、曹魏の諸将の中には新参の降将である龐徳の忠誠心を疑う声が少なからず存在していた。龐徳の従兄やかつての主君である馬超が、すでに敵対する劉備の陣営において高位に就いていたからである。この内外からの根強い疑念を払拭するため、龐徳は出陣に際して自ら白木の棺を用意して陣中に持ち込み、「私が関羽を討ち取るか、関羽が私を討ち取るかだ」と決死の覚悟を宣言した。このような極限の緊張感と悲壮な決意を抱いた龐徳を先鋒の将として従え、于禁は南下を開始し、樊城の北側に陣を構えた。于禁自身もまた、三十年近くにわたり曹操の期待を一度も裏切ることなく応え続けてきた比類なき名将としての自負と、全軍の命運を握る総大将としての重い責任を胸に、強敵である関羽を討ち破るための戦略を冷徹に練っていたに違いない。両軍は漢水を挟んで対峙し、戦局は一触即発の膠着状態に陥った。于禁は持ち前の厳格な軍律をもって陣立てを強固に保ち、関羽の隙をうかがっていた。通常の野戦であれば、于禁の神算鬼謀と七軍という圧倒的な物量をもってすれば、関羽といえども正面からこれを容易に打ち破ることはできなかったはずである。しかし、彼らを待ち受けていたのは、人間の知恵や武力を根底からあざ笑うかのような、未曾有の大自然の猛威であった。

建安二十四年の秋、八月。荊州北部の気候は異常な様相を呈していた。歴史に類を見ない長雨である。連日連夜にわたって狂ったように降り続く秋霖は、一向に止む気配を見せず、大地を底なしの泥濘に変え、平野に布陣する兵士たちの体力を容赦なく奪っていった。そして、この長雨はついに取り返しのつかない破滅をもたらす。樊城と襄陽の側を流れる巨大な水系、漢水が、異常な降雨量に耐えきれずに広範囲で決壊し、大氾濫を起こしたのである。歴史書はこの時の筆舌に尽くしがたい惨状を端的に、しかし極めて恐ろしい言葉で記録している。

『三国志』于禁伝には次のように記されている。

「秋、大霖雨、漢水溢、平地水数丈、禁等七軍皆没。」

(秋、大霖雨が降り、漢水が溢れ、平地の水は数丈の深さとなり、于禁らの七軍は皆水没した)

平地における水深が「数丈」に達したという歴史書の記述は、これが単なる河川の氾濫や床下浸水のような局地的な規模ではなく、軍営一帯を跡形もなく完全に水没させる破滅的な大洪水であったことを明確に示している。一丈は約二・三メートルから二・四メートルに相当するため、平地の水深は優に五メートル以上に達したことになり、重い甲冑を着込み、武器を持った兵士たちが自力で抗えるような状況では絶対になかった。于禁が率いていた精鋭七個軍団の陣営は、この想像を絶する濁流に為す術もなく呑み込まれた。山のように積まれていた兵糧も、弓矢や槍といった戦うための武器も、機動力を支える数多の軍馬も、そして数え切れないほどの兵士たちの命も、すべてが一瞬にして水底へと消え去ったのである。これは軍同士の衝突による戦術的な敗北ではない。于禁がいかに兵法に通暁し、部隊の統率に優れていようとも、平地に布陣した数万の大軍が突如として水深数丈の鉄砲水に襲われては、いかなる名将であっても指揮を執り、陣形を維持することは不可能である。天災が曹魏の誇る無敵の大軍を、文字通り一掃し、完全に無力化したのである。

濁流からかろうじて逃れ得た于禁や龐徳、そして生き残った数万の将兵たちは、水没を免れたわずかな高台や堤防の上に密集して避難するほかなかった。周囲を見渡せば地平線の彼方まで一面の泥海であり、味方が守る城への連絡網も、後方への退路も完全に断たれていた。そこへ死神のごとく襲い掛かってきたのが、あらかじめ強力な水軍を整備し、秋の降雨による洪水の発生や水上戦への移行すらも想定して周到に準備を整えていた関羽の軍勢であった。関羽は大型の軍船に乗り込み、水上の機動力を存分に活かして、身動きの取れなくなった于禁たちを高台ごと四方から完全に包囲したのである。

『三国志』于禁伝において、この時の関羽の攻撃は「羽乗大船就掩撃禁等、禁遂降」と短く記されている。関羽の軍船からは無数の矢が雨あられと射掛けられ、水没によってあらゆる武器を失い、陣形も崩壊して密集するしかない曹魏の兵士たちには、もはやいかなる反撃の手段も残されていなかった。この凄惨かつ絶望的な状況下において、于禁と龐徳の運命、そして後世における歴史的な評価は決定的に分かれることとなる。先鋒であった龐徳は残された少数の兵を率いて泥水に浸かりながらも高台に踏みとどまり、弓矢を引き絞って徹底抗戦を試みた。矢が尽きると今度は白兵戦を挑み、怒濤のような敵兵の群れに向かって絶望的な突撃を繰り返した。しかし、多勢に無勢であり、小舟を使って反撃を試みたところを激流によって転覆させられ、ついに関羽の兵に生け捕りにされた。関羽の陣営に引き出された龐徳は、主君である劉備の威光を説いて降伏を促す関羽に対し、「豎子、何謂降也!」と面罵した。「魏王の帯甲は百万、威は天下を震わせている。劉備のごとき凡才がどうして敵対できようか。私は国家の鬼(死者)となるも、賊将には決してならない」と叫び、曹魏への絶対的な忠誠を貫き通しながら従容として斬首の刃に伏した。龐徳のこの壮絶な最期は、武人としての烈烈たる気迫と忠義の極みとして、曹魏の陣営を大いに感奮させ、後世の歴史家からも絶賛されることとなる。

一方で、曹魏軍の野戦最高司令官たる于禁が下した決断は、玉砕覚悟の徹底抗戦でもなく、武人の誇りを守るための自刃でもなく、残存する全軍を率いての「降伏」であった。最高の軍権である仮節鉞を与えられ、かつて旧友の昌豨が降伏を願い出た際にも一切の情を容れず軍法に従って彼を斬り捨てたあの厳格無比なる于禁が、自らは戦わずして敵将である関羽の軍門に降ったのである。この瞬間、彼が三十年以上の歳月と無数の血の犠牲の上に築き上げてきた「厳格なる法の体現者」としての威名、不敗の名将としての栄光、そして曹魏における確固たる権威は、文字通り音を立てて崩れ去った。彼の指揮下に生き残っていた数万の兵士たちは武装を完全に解除され、関羽軍の捕虜として江陵へと送られることとなった。于禁の降伏という事態は、包囲されて孤立無援となった樊城の曹仁のみならず、遠く許都にいる曹操、そして曹魏の全土に致命的かつ心理的な大衝撃を与えることとなる。天下にその名を知られた国家の柱石がいとも容易く折れ、大軍ごと敵に降ったという事実が、関羽の武名を天下に轟かせ、中原をかつてない恐怖に陥れたのである。事態を重く見た曹操は、一時は関羽の鋭鋒を避けるために許都からの遷都すら本気で検討したほどであった。

于禁降伏の凶報は、瞬く間に曹操の元へと届けられた。これまで数多の戦場を駆け抜け、呂布や袁紹といった強敵との数々の絶望的な危機を乗り越えてきた覇王たる曹操も、この報せには絶句し、我が耳を疑わざるを得なかった。自身が最も深く信頼し、軍の規範として絶対的な生殺与奪の権限を与えていた男が、最後まで戦い抜くことなく敵に命乞いをしたのである。対照的に、自陣営に加わって日の浅い降将であった龐徳が、死を以て忠節を貫き通したという事実は、于禁の降伏という行為をさらに際立たせる残酷な結果となった。曹操は深い悲しみと怒り、そして取り返しのつかない失望の中で、次のように痛切に嘆息したと記録されている。

「吾知禁三十年、何意臨危処難、反不及龐徳邪!」

(私は于禁を知って三十年になる。それが危険に直面し困難に処したとき、かえって龐徳に及ばないとは、どうして思いもよっただろうか)

この曹操の血を吐くような嘆きは、于禁の降伏という事実が、単なる一軍の敗北を超えた重大な意味を持っていたことを象徴している。彼が厳しく非難された真の理由は、建安末期という時代が迎えていた歴史的な過渡期という特異な文脈に隠されている。

後漢末期の動乱初期、すなわち実力主義に基づく群雄割拠の時代であれば、武将が不利な状況下で降伏し、配下の兵の命や己の才を存続させることは、戦場における極めて合理的な判断として広く受容されていた。事実、張遼、張郃、徐晃など曹魏を支えた重鎮たちの多くは、かつて別の主君に仕え、状況に応じて降伏を選択してきた降将たちであり、于禁自身も初期は鮑信に従っていた身である。初期の曹操軍においては、有能であれば降伏を恥とはせず、むしろ積極的に重用する実力主義が機能していた。

しかし、建安二十四年という時期は、長きにわたる戦乱を経て曹操が魏王の位に就き、単なる巨大な軍閥から、確固たる新たな『国家体制』の形成へと向かう最終段階にあった。この曹魏という国家の権威と法秩序を揺るぎないものとするための決定的な時期において、他ならぬその法を執行する最高幹部たる将軍たちには、戦場における単なる生存の合理性を超え、新たに生まれつつある「国家の威信」を守るための体制への絶対的な忠誠や、場合によっては殉死すらも辞さないという、新たな次元の責務が求められ始めていたのである。

三十年かけて曹操と共に軍の法と秩序を築き上げてきた于禁は、まさにその新体制の正当性と威信を体現する象徴的な存在でなければならなかった。しかし彼は、数万の兵が残っているという極限状況下において、自らが守護してきたはずの「法の権化」「国家の柱石」としての社会的役割を放棄し、過去の群雄割拠時代の合理性、すなわち「無駄死にを避け、命と兵を存続させる」という古き選択をしてしまったのである。新参の降将である龐徳がいち早く時代の要請である「国家への殉死」を体現したのに対し、古参の筆頭格である于禁が旧来の軍閥的合理性に留まったというこの悲劇的な逆転現象こそが、曹操を深く絶望させた。この国家が求める理念的な忠誠と、将軍としての現場の戦術的合理性との決定的な乖離こそが、于禁を卑劣な逆臣へと貶めた真の要因であったと言える。

しかし、ここで我々は歴史の勝者の論理から一歩引いて、極めて冷静な視点から一つの重大な疑問を提示しなければならない。三十年もの長きにわたり、幾度も死地を駆け抜け、自らの命を顧みずに主君のために尽くしてきたあの于禁が、突如として単なる死への恐怖という陳腐な理由だけで降伏を選ぶだろうか。彼は自己の保身のためだけに、数万の将兵を敵に売り渡した卑怯者だったのだろうか。彼が高台に避難した時点で、于禁の軍は武器も食糧も失い、組織としての戦闘能力を完全に喪失していたという冷徹な事実がある。彼がその泥水の中で龐徳とともに玉砕の道を選んでいれば、彼自身の武名と名誉は確実に守られたかもしれない。だが、残された数万の将兵もまた関羽軍によって皆殺しにされるか、あるいは濁流に呑まれて全滅していたことは火を見るより明らかであった。

次章において詳述するが、于禁の降伏は、名誉ある死という個人的な感情を完全に切り捨て、最高司令官として残存する部下の生命を如何にして守るか、そして敵である関羽軍に対してどのような長期的戦略的負荷、すなわち数万の捕虜による兵糧の枯渇を強いることができるかという、極限状態における究極の「合理的判断」であった可能性を排除できないのである。樊城の戦いは、于禁の輝かしい栄光をすべて奪い去った転落の象徴であると同時に、将軍としての軍事的な合理性と、国家が求める忠義という体制維持の理念が最も凄惨な形で衝突した、避けがたい歴史的悲劇の舞台であったと言えよう。


【引用文献・史料】

陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書第十七 張楽于張徐伝(于禁伝)

陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書第十八 二李臧文呂許典二龐閻伝(龐徳伝)

陳寿撰、裴松之注『三国志』蜀書第六 関張馬黄趙伝(関羽伝)

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