第1節 曹魏の柱石としての于禁
後漢末期の動乱という未曾有の戦乱時代において、覇王たる曹操が中原を制し、後の魏王朝の礎を築き上げる過程で、数多の武将たちが戦場に散り、あるいは栄達を遂げた。その中において、曹操配下の異姓の将軍たちの中で最高位に昇り詰め、曹魏の柱石として畏怖と尊敬を一身に集めたのが于禁、字を文則である。後の歴史家である陳寿は『三国志』において、張遼、楽進、張郃、徐晃とともに彼を並べて評し、後世には「五子良将」と称されることとなるが、その筆頭たる存在感と曹操からの絶大な信頼において、最盛期の于禁の右に出る者はいなかった。本節では、悲劇的な結末を迎える以前の彼が、いかにして無双の軍事的才能を発揮し、また厳格なる軍律の体現者として曹操の覇業を支えたのかを、当時の史料に基づく具体的な武功と逸話から論証する。
于禁の武将としての経歴は、当初は鮑信の配下として黄巾賊討伐に参加したことに始まる。鮑信の死後、曹操の将軍である王朗の推薦によって曹操に謁見し、その並外れた軍才を見出された。曹操は彼を軍司馬に任命し、徐州攻めや呂布との激戦である濮陽の戦いなど、初期の極めて困難な戦役の多くに彼を従軍させた。これらの戦いにおいて于禁は常に最前線で敵陣を打ち破り、陥陣都尉などの要職を歴任していく。しかし、于禁が単なる猛将ではなく、冷静沈着な大局観と比類なき統率力を備えた名将であることを天下に知らしめたのは、建安二年に起きた宛城での戦い、いわゆる淯水の難における彼の行動であった。
この戦いにおいて、曹操は降伏したはずの張繍による夜襲を受け、長男の曹昂や猛将の典韋を失うという壊滅的な敗北を喫した。曹操軍の将兵は散り散りになり、指揮系統は完全に崩壊した。この未曾有の混乱に乗じ、曹操の主力部隊の一つであり、かつて黄巾賊から編入された青州兵たちが、味方の陣営や領民から略奪を働き始めたのである。敗走する自軍の中にあって、于禁はこの暴挙を座視しなかった。彼は自身の直属の部隊を厳格に統率しつつ、略奪を行う青州兵たちを討伐し、軍の規律を力ずくで回復させたのである。
これに恨みを抱いた青州兵たちは、于禁よりも先回りして曹操の元へ逃げ込み、「于禁が反乱を起こした」と讒言を行った。于禁が遅れて撤退してきた際、彼の配下の者たちは「青州兵が讒言をしているのだから、早く曹操公の元へ行き、弁明すべきです」と進言した。しかし、于禁はこの忠告に対して極めて冷静に状況を分析し、次のように答えている。
「賊在背後、追至無日、不先為備、何以待敵?且公聡明、譖言何益!」
(賊は背後に迫っており、追いつかれるのは時間の問題である。先に防備を固めずして、どうやって敵を迎え撃つのか。それに曹操公は聡明なお方である。讒言など何の効果があろうか)
于禁は自らへの疑いを晴らすことよりも、目前に迫る敵軍の追撃を防ぐための陣地構築を優先した。陣営を整え、迎撃の態勢を完全に構築した後で、彼は初めて曹操の元へ赴き、事の顛末を報告したのである。この時、曹操は于禁の行動を次のように絶賛している。
「淯水之難、吾其狼狽、将軍在乱能整、討暴堅塁、有不可動之節、雖古名将、何以加之!」
(淯水の災難において、私は狼狽し窮地に陥ったが、将軍は混乱の中で軍を整え、暴虐を働く者を討ち、堅固な陣を築いた。その揺るぎない節操は、古のいかなる名将であっても、どうしてこれ以上であろうか)
この曹操の称賛に示されている通り、于禁の最大の価値は、個人の武勇のみならず、危機的状況において組織の秩序を維持し、私心や保身を捨てて軍事的な合理性と規律を優先する点にあった。群雄割拠の時代、軍隊はしばしば私兵の集まりであり、略奪や裏切りが日常茶飯事であった。その中で、曹操が単なる軍閥から国家へと脱皮していくためには、于禁のように厳格な法と軍律によって軍を統制できる将軍が不可欠であったのである。
彼の軍事的才能は、建安五年に勃発した袁紹との天下分け目の決戦、官渡の戦いにおいても遺憾なく発揮された。曹操と袁紹の兵力差は圧倒的であり、曹操軍の将兵の多くが恐怖に怯える中、于禁は自ら最前線である延津の防衛を志願した。曹操が本陣を官渡に引いた後も、于禁は寡兵をもって袁紹の猛攻を再三にわたって凌ぎ切った。さらに彼は防戦に留まらず、楽進らとともに別働隊を率いて黄河を渡り、袁紹軍の別営を次々と焼き討ちにし、数千の敵兵を討ち取り、二十余人の敵将を降伏させるという目覚ましい武功を挙げている。この功績により、于禁は偏将軍に昇進した。圧倒的な劣勢においても決して揺るがず、与えられた任務を冷徹に完遂する彼の姿は、まさに曹魏の軍事的支柱そのものであった。
しかし、于禁を于禁たらしめ、軍内に彼への畏怖を決定付けたのは、旧友である昌豨への処断という逸話である。建安十一年のこと、東海郡で昌豨が反乱を起こした。曹操は夏侯淵と于禁に命じてこれを討伐させた。激しい包囲戦の末、追い詰められた昌豨は、于禁と旧知の仲であったため、于禁の陣営に赴いて降伏を申し出た。諸将は皆、昌豨は降伏したのだから、生捕りにして曹操の元へ護送し、曹操の判断を仰ぐべきだと主張した。
しかし、于禁は一切の情を挟むことなく、この提案を退けた。于禁は軍律と主君の命令を引き合いに出し、諸将に対して次のように宣言した。
「諸君不知公常令乎!囲而後降者不赦。夫奉法行令、事上之節也。豨雖旧友、禁可失節乎!」
(諸君は公の常の法令を知らないのか。包囲された後に降伏した者は赦免しない、というものである。法を奉じ令を行うことこそが、上を仕える者の節操である。昌豨が旧友だからといって、私がその節操を失ってよいものだろうか)
そう言い放つと、于禁は自ら昌豨の元へ赴き、涙を流しながら処刑を執行した。この苛烈なまでの法への殉教は、当時の人々に多大な衝撃を与えた。曹操はこの報告を聞き、「昌豨が私のもとではなく、于禁に降伏したのも天命であろうか」と嘆息し、于禁に対する評価と信頼をさらに深めたという。主君の定めた軍法を守るためならば、自らの感情や交友関係すらも冷酷に切り捨てる。于禁のこの姿勢は、情実や血縁が重んじられる当時の社会において極めて特異であり、同時に曹操軍全体の規律を引き締める強烈な見せしめとなった。彼は自らを厳しく律することで、全軍に法の絶対性を示したのである。
その後も于禁は順調に武功を重ね、建安二十一年には左将軍に昇進した。そして、彼に対する曹操の絶大な信頼を象徴するのが「仮節鉞」の授与である。仮節鉞とは、平時において軍令違反者を即座に処刑できる権限に加え、戦時においては将軍級の高級武官すらも皇帝や主君の許可なく斬ることができるという、軍隊において最高の生殺与奪の権を意味する。当時、曹操配下においてこの最高権限を与えられていたのは、異姓の将軍としては于禁ただ一人であった。親族である曹仁や夏侯惇といった重鎮たちと並び、いや、こと野戦軍の統率という点においてはそれ以上に、于禁は曹操の絶対的な代理人として軍内に君臨していたのである。
法を犯した者に対しては一切の情を容れず、いかなる恩賞も配下には平等に分配し、自らの財産を蓄えることをしなかったという記録も『三国志』には残されている。于禁は、曹魏という巨大な軍事機構の歯車として、最も完璧に、最も合理的に機能する将帥であった。軍隊という組織が存続するための「法」と「規律」の権化であり、圧倒的な武力と大局観を備えた無敗の名将。それが、樊城の戦いという未曾有の悲劇に直面する前までの、于禁の偽らざる姿であった。
彼の前半生におけるこの完璧なまでの武将としての経歴と、私情を絶ち法に殉じた厳格さが存在したからこそ、後の樊城における「降伏」という選択は、当時の人々にとって、そして後世の歴史家にとって、到底理解し難い裏切り行為として映ることとなる。輝かしい光が強ければ強いほど、その後に落ちた影はより深く、より暗く歴史に刻まれる。于禁が曹魏の柱石として築き上げた威名と権限は、皮肉にも彼自身の転落の悲劇性を極限まで高めるための、残酷な前奏曲であったと言わざるを得ない。
【引用文献・史料】
陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書第十七 張楽于張徐伝(于禁伝)




