第2節 合理主義者としての苦渋の決断
前節において詳述した通り、建安二十四年秋の樊城郊外において于禁を襲った大洪水は、戦術や指揮能力といった人間の努力で覆せるものではなく、軍事的な対応能力を一瞬にして完全に奪い去る物理的な絶望であった。高台に取り残され、武器も食糧も陣形も失った数万の将兵は、完全武装した関羽の水軍に完全に包囲され、いかなる反撃の手段も持たない無力な遭難者の群れと化していた。この一方的な殺戮を待つしかない絶望的な泥海の中で、総大将である于禁が下した「降伏」という決断は、後世の倫理観や当時の高まりつつあった忠義という思想的規範から見れば、まぎれもなく武将としての誇りを捨てた卑劣な裏切り行為と映った。しかし、戦場の現実を直視し、軍を統率する将帥の本来の責務という観点からこの決断を再評価するとき、そこには一個の純粋な合理主義者としての、血を吐くような苦渋の選択が浮かび上がってくるのである。
そもそも、軍隊という巨大な暴力を統率する将帥にとって、最大の責務とは何であろうか。自らの武名や名誉を守るために玉砕することであろうか。古代中国の兵法の最高峰とされる『孫子』謀攻篇には、戦争における最善の形について次のような明確な指針が示されている。
「凡用兵之法、全国為上、破国次之。全軍為上、破軍次之。」
(およそ兵を用いるの法は、敵国を傷つけずに降伏させることを上と為し、打ち破ることは之に次ぐ。敵軍を無傷で降伏させることを上と為し、打ち破ることは之に次ぐ)
この一節は敵軍に対する理想を述べたものであるが、同時に自軍の運用についても通底する極めて合理的な軍事思想である。すなわち、兵法における最上の価値とは「戦力を無駄に損なわないこと」であり、破壊や全滅は常に次善以下の下策とされる。三十年近くにわたり曹操の中軍を率い、数々の激戦を指揮してきた于禁は、情熱や血気で動く匹夫の勇を持つ将ではなく、この『孫子』の合理性を極限まで体現したような厳格な用兵家であった。
樊城におけるあの極限状況において、もし于禁が自らの「名誉」や後世への「体面」を最優先に考える将軍であったならば、選択肢は極めて単純であった。残存する数万の兵士に対し、素手であっても関羽の軍船に向かって玉砕の突撃を行うよう命じるか、あるいは兵士たちを見捨てて自ら高台から身を投げ、主君への忠義を叫んで自刃すればよかったのである。そうすれば、兵士たちは関羽軍の射撃の的となって水底に沈むか、餓死と凍死の地獄を味わうことになったであろうが、于禁自身の「名将」としての歴史的評価は完璧に守られ、忠烈の臣として永く廟に祀られたに違いない。
しかし、于禁はそのような自己満足のための徹底抗戦を選ばなかった。武器も陣形もない状態での戦闘命令は、もはや戦術ではなく単なる「虐殺の強要」である。法と規律を重んじる彼にとって、勝算が万に一つも存在しない状況において、自らの個人的な名誉を守るためだけに、手足をもがれたも同然の数万の部下を無益な死へと追いやることは、将軍としての職務放棄であり、最大の罪悪であったと考えられる。彼は己の三十年にわたる輝かしい名声と、曹魏における絶対的な権威が泥に塗れることを完全に覚悟の上で、全軍の命を救うための唯一の現実的な手段、すなわち「降伏」を選んだのである。それは、武将としての精神的な死を引き受け、指導者としての合理的な責任を全うした瞬間であった。
ところが、この于禁の極めて冷徹で合理的な決断を、歴史の暗部へと突き落とし、彼に「不忠の卑怯者」という消えることのない烙印を押す決定的な要因となった出来事が、同じ戦場において発生した。それが、先鋒として従軍していた副将、龐徳の存在と彼の壮絶な最期である。
前節でも触れた通り、龐徳は高台に孤立した後も少数の部下とともに小舟で突撃を繰り返し、関羽に生け捕りにされた後も決して屈服することなく、主君である劉備を罵倒して自ら斬首の刃に伏した。この龐徳の行動は、曹魏への絶対的な忠誠の証として陣営内外に多大な感動を与え、曹操をも落涙させた。しかし、この龐徳の「忠死」という輝かしい行為が存在したからこそ、対照的に于禁の「降伏」は、相対的に極めて卑小で命惜しさの臆病な行為として際立ってしまったのである。
ここで我々は、歴史の表面的な美談に惑わされることなく、なぜ龐徳が死を選び、于禁が降伏を選んだのか、その背景にある「政治的・血縁的な必然性」の違いを厳密に比較しなければならない。龐徳が死を選んだのは、単に彼が于禁よりも精神的に優れ、忠義に厚い勇敢な男だったからというような単純な英雄譚ではない。彼には「死ななければならない、極めて合理的な理由」が存在したのである。
龐徳はもともと涼州の軍閥である馬超の腹心であり、建安二十年に曹操が漢中を平定した際に降伏して曹魏に仕え始めたばかりの新参の将であった。彼にとって最大の不幸であり、同時に極度の重圧となっていたのは、彼の従兄である龐柔が敵国である蜀漢(劉備陣営)に仕えており、さらにはかつての主君である馬超もまた、劉備の陣営において高位にあったという事実である。
『三国志』龐徳伝には、樊城へ出陣する前の龐徳の置かれた危うい立場について、次のように記されている。
「樊下諸将以徳兄在漢中、頗疑之。」
(樊城の救援に向かう諸将は、龐徳の従兄が漢中にいることから、すこぶる彼を疑っていた)
曹魏の陣営内において、龐徳は常に「いつ劉備軍に寝返ってもおかしくない危険人物」として猜疑の目に晒されていたのである。龐徳が自ら白木の棺を用意して出陣した悲壮な決意の裏には、この陣営内からの冷たい疑念を払拭しなければならないという、新参者としての絶望的な危機感があった。
もしあの水没した高台において、龐徳が于禁とともに降伏し、関羽の軍門に下っていたらどうなっていたであろうか。龐徳は間違いなく、かつての主君である馬超や従兄の龐柔がいる蜀漢にそのまま帰順したと見なされたはずである。そして、その情報が許都の曹操の耳に入れば、曹魏に残されている龐徳の妻や子供たち、そして一族郎党は、「裏切り者の家族」として直ちに処刑される運命にあった。龐徳にとって関羽への降伏は、自らの命を永らえる代わりに、故郷の家族を皆殺しにするという最悪の選択であった。
つまり、龐徳が泥水の中で絶望的な突撃を繰り返し、関羽の面前で劉備を激しく罵倒して斬首されたのは、自らの無実と曹魏への忠誠を完璧な形で証明し、魏に残してきた家族の命を守るための、彼なりの究極の「合理的判断」だったのである。彼の烈烈たる忠義の言葉は、関羽に向けられたものではなく、遙か彼方の許都にいる曹操に向けられた、命懸けの家族救済の嘆願であった。事実、曹操は龐徳の死を知って深く悲しみ、彼に壮侯という諡号を贈り、彼の二人の子を列侯に封じている。龐徳の計算は、自らの命を対価として見事に結実したのである。
これに対して、于禁の置かれた状況は龐徳とは全く異なっていた。于禁は三十年近くにわたって曹操の軍の中核を担い、数多の戦功を立て、臣下として最高位の軍権である仮節鉞を授けられた魏の重鎮中の重鎮である。彼の家族や親族が敵国にいるわけでもなく、彼が裏切る理由など天下の誰もが想像すらしない確固たる地位にあった。于禁には、龐徳のように「自らの死をもって忠誠を証明し、家族の命を守らなければならない」という切羽詰まった政治的・血縁的な動機が存在しなかったのである。
だからこそ、于禁の視野には、個人的な名誉や自己証明の必要性ではなく、ただ純粋に「総大将として、目の前で濁流に苦しむ三万の部下の命をどう扱うか」という一事のみが映っていたと考えられる。彼にとって、抵抗不可能な状況下で部下を道連れにして死ぬことは、何ら益のない蛮行でしかなかった。彼は、自身の三十年の忠勤と実績があれば、一時的な降伏という軍事的な敗北の責任を問われることはあっても、まさか不忠の逆臣として全否定されることはないだろうと、曹操の知己を信じていた節もある。
しかし、于禁のこの純粋な合理主義は、皮肉にも龐徳の強烈な「忠死」という光によって、最も残酷な形で弾劾されることとなった。人間は、極限状態において対照的な二つの行動を見せられたとき、より感情を揺さぶる悲劇的で自己犠牲的な行動(龐徳)を絶対的な「善」とし、生き残るという現実的な行動(于禁)を卑劣な「悪」として単純化して断罪する傾向がある。龐徳という、死なざるを得ない切実な事情を抱えた猛将が同じ戦場にいなかったならば、あるいは彼もまた濁流に呑まれて水死していたならば、于禁の降伏は「天災によるやむを得ない悲劇」として、ここまで凄惨な歴史的批判を浴びることはなかったかもしれない。
于禁の降伏は、臆病風に吹かれた逃亡ではない。それは、個人的な名誉への執着や精神論を完全に切り捨て、数万の兵士の命を救うことを最優先とした、軍司令官としての最も冷徹で、かつ最も苦渋に満ちた決断であった。しかし、建安末期という時代は、もはや群雄割拠の初期のような実力主義的な合理性だけでは許されない、国家への絶対的な忠義という思想が形成されつつある時代であった。于禁の悲劇は、彼が時代精神の変化に殉じるのではなく、最後まで軍人としての「合理性」に殉じてしまったことにある。彼は部下の命を救った代償として、自らの歴史的な存在意義そのものを差し出すことになったのである。
【引用文献・史料】
孫武撰『孫子』謀攻篇第三
陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書第十七 張楽于張徐伝(于禁伝)
陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書第十八 二李臧文呂許典二龐閻伝(龐徳伝)
陳寿撰、裴松之注『三国志』蜀書第六 関張馬黄趙伝(関羽伝)




