九、風変わりな屋敷の住人
部屋に、ノックの音が響いた。
こちらの返事を待たずに、扉が開く。
窓の向こうの王都は、まだ藍の夜に包まれていた。
テーブルに置いていた燭台の火。
それが、ゆらりと一瞬大きく揺れる。
出窓のソファに座っていた私は、振り返った。背をずっとさすっていたアゲハの手が離れる。
そこにいたのは、シルクハットを被ったままの旦那様。
彼は、ハットと杖を後ろにいたアオサギに押し付けるようにすると、私のそばに早足で近づいてきた。
ソファのそばで一度足を止める。
旦那様の切れ長の黒い瞳。
そこに、燭台の橙が滲んだ。
彼は私と目を合わせ、口を強く引き結んだ。
ゆっくりと、私の隣に腰を下ろす。
クッションがかすかに沈んだ。
彼のウッディベースのトワレ。
それから、霧の匂い。
燭台の火が、わずかにジッと音を鳴らした。
そして、彼は確かめるように、私の目を静かに覗き込む。
後ろで、かすかな衣擦れの音。
アオサギに促され、アゲハが退室していくのが視界の端に見えた。
扉が、閉まる。
「……旦那様」
彼が腕を伸ばし、膝の上に置いていた私の手に触れようとして――やめた。
手を戻し、膝のうえで拳を握る。
「……ベアトリス」
「旦那様……ごめんなさい。私……」
彼の眉が寄った。
「なぜ、あなたが謝るんだ。謝るのはこちらの方だ」
私は首を振る。
「使用人の管理は、旦那様のお仕事に関わることだから手を出さなくていいと……始めから言われておりました。
アオサギたちのことは、どうかお叱りにならないで……。
私が勝手に……」
旦那様が、ゆっくりと息を吐き出した。
「アオサギとシラトリには隠し通せるわけがないと、ずっと言われていたんだ。
あなたには……きっと……見つけられてしまうだろうと。
それを俺が我儘で押し通した」
私は腕を伸ばして、旦那様の拳に手を添える。ぴくりと、その拳は震えた。
だが、旦那様の視線は、悲しげにゆっくりと下がってしまう。
「俺は……人ならざるものなんだ」
「え……」
瞳を見つめるも、彼の夜の瞳は逃げるように窓の方へ向いた。
「俺の仕事は“黄泉の案内人”。
あちらの世界に、死者の魂を連れて行く仕事だ」
かすかに、心臓が跳ねる。
「とある国では、俺は“鬼”とも呼ばれている」
ふっと彼が笑った。
いつもの優しい笑い方ではなく、諦めるような笑い方で。
「大人しい死者ばかりではないからな。
人間の男より、力はあるし、上背もある方だ。
だからそのように呼ばれる」
旦那様の拳に添えた手は振り払われることはなかった。私は静かに彼の横顔を見つめる。
「古から、この“黄泉の案内人”はこの世とあの世を行き来していた。
俺も、その一人。
王家も、それを知っている。もちろん、あの化け狐殿下もだ」
彼が、ちらと、こちらを見た。
「この家にいる使用人はみな、人ではない」
私はただ、見つめ返す。
「アオサギとシラトリはその名のように、元は鳥だった。
青鷺と白鳥だ。先代から仕えてくれている。
アゲハは、あなたのために新しく仕えさせた。あなたの話相手となるのだから、美しいものが良かろうとアオサギたちと相談して、庭園を飛んでいたアゲハ蝶を捕まえたんだ。
やはり鳥でなくて虫だからか、思っていたより頭が弱くてな。
だが、愛嬌があるからいいかと……」
思わず、ふっと吹き出してしまった。
旦那様の頬が一瞬だけ緩んだが、またすぐに、悲しげに窓の方へ視線が向けられてしまう。
「その他の使用人はみな、式神だ。俺が作った」
「そうでしたか……」
旦那様は呼吸を整えるように静かに息を吐き出すと、私の方へ体を向き直した。
「帰るか?」
「え?」
彼が、唾を飲み込む。
「実家に……」
喉が張り付いたように、私は、言葉が出ない。
「気味が悪いだろう……? こんな家。それから、こんな男。
いつも霧を纏い、いつも死者の匂いを漂わせる男だ」
私は、大きく息を吸う。
「それが理由で……旦那様は共寝をなさらないのですか?」
「……まぁ、そうだな」
どうしてか、視界が滲む。
それは、ポツリと音を立てて、落ちてしまった。
旦那様はハッとして、私の瞳を見つめると指先を伸ばし――だが、やはりそれもやめてしまった。
手が、膝におろされる。
「……ベアトリス。離縁をしよう。俺は、あなたの人生を汚してしまった。申し訳なく思っている」
「だ……旦那様……」
両手で、その手に触れた。
視線が絡む。
黒い夜の瞳に、私が映り込んでいる。
まっすぐに私を見てくれるその瞳が、小さく揺れている。
私はたまらず、彼の胸に頭を押しつけるようにした。
彼の身が、震える。
「おそばに……。旦那様のおそばに……置いてください」
「しかし――」
「お慕いしています」
「え」
「お慕いしてしまいました……。今更、手放すなどと……」
顔を上げる。
わずかに目を見開いている旦那様。
私は彼に体を寄せ、その大きな体を抱きしめた。
彼のウッディベースのトワレは、言われてみれば、白檀の香りに似ている。
「これが、死者の匂い? ……随分静謐なのですね」
旦那様の戸惑いが、肌から伝わってきた。
やがて、私の背に、大きな手が添えられる。
「……香水もつけているよ。臭いと思われたくないからね」
「“黄泉の案内人”て、お洒落さんなんですね」
「まさか。変なやつしかいない」
私が笑うと、旦那様もふっと笑った。
――人ならざるあなたを愛するために、私には何が必要ですか?
覚悟?
それとも――
窓の向こう。
東の空がわずかに白みを帯びてきた。
夜が明け、この世の人々が、目覚め始める。




