八、顔のない人々
夜。
私は寝室の窓辺に立ち、空を見上げた。
まっさらな月がひとつ、浮かんでいる。
ガラス窓に触れると、それはひんやりと指先を冷やした。
振り返り、ベッドサイドのオイルランプを見つめる。
――きっと今日も、旦那様はここへは来ない。
だけど、ここで待つ。
小さく息を吐いて、そっと、自分のお腹に触れる。
湖で、旦那様に背後から抱きかかえられた時。
私のお腹には彼の腕が触れていた。
背にも、彼の体温の記憶。
あの時は突然で、全然意識していなかったけど、後になって恥ずかしくなってきた。帰りの馬でも、少し緊張してしまったくらいだ。
「旦那様が世継ぎをいらないと考える理由は……やっぱり聞けなかったわ……」
窓にカーテンを引き、ベッドに寄ると、その縁に腰掛けた。
――もし、旦那様がこの部屋に来たら……。
あの力強い腕で、抱きしめてくださるのかしら……。それで……顔を寄せ合ってキスを……。
じわりと頬が熱を持つ。
「私、何考えてるの!?」
ベッドに寝転がる。
「馬鹿みたい!」
天蓋を見つめる。
まばたきをひとつ。
寝返りを打って、ランプを見る。
ゆらりと揺れる火。
うつ伏せになって、顔を枕に埋める。
起き上がった。
「私……」
自分の体を抱きしめる。
「……不毛だわ。白い結婚なのに……」
何をしていても、旦那様のことばかり。
細く、長く、ため息を吐いた。
首を振ってベッドを離れると、また窓辺に寄った。カーテンを払い、窓を押し上げる。
風が、髪をわずかに揺らした。
――旦那様を好きになったって……どうせ叶わない恋なのに。
あまり表情の動かない端正な顔。
時々、ふって笑う。
低い、落ち着いた声。
節くれだった大きな手。
私を見たときに細められるその瞳は――
「とても優しいのよね……」
せめて、理由が知りたい。
普通の夫婦に、なりたいわ。
ふと、庭園に目をやる。
月明かりの下に人影。
庭師の男。
――こんな時間まで?
彼はすっと立ち上がると、まるで何かに惹きつけられるかのように、ふらりと歩き出した。
その足は、使用人棟の方へ向かう。
男をなんとなく目で追っていると、別の女の使用人も視界に入った。
彼女も、庭師と似たような動きでふらりと使用人棟へと吸い込まれていく。
――似た動きどころか……。
足の運び。
腕の角度。
頭の俯き加減。
――全く同じ。
ぞわりと、肌が粟立った。
私は急いでガウンを羽織った。
手持ちのオイルランプを持ち、扉へ向かう。
取っ手に手をかけ、少しだけ悩んだ。
だが、結局、外へ出た。
本邸と使用人棟を繋ぐ渡り廊下。
私は影に身を潜めて、使用人棟の方を見る。
先ほどと同じような使用人たちが、幾人も使用人棟へと入っていった。
足音を立てないように、彼らの後を追う。
使用人棟の一番手前、一番大きな部屋は、執事長アオサギの部屋。その扉が開け放たれ、使用人達が次々と吸い込まれていく。
廊下のランプは、ほとんど火を灯されていなかった。持ってきたオイルランプの火が目立つのが気になり、消した。
本邸は石床なのに対し、使用人棟は少し簡素な木の床。窓からの月光が、筋となって滑っているように見えた。
アオサギの部屋から、声がする。
「ひー、ふー、みー……。全部ありますね」
数を数える、アオサギの声。
「アオサギ、そろそろ薪の準備が必要です。
旦那様に相談されたほうがいいかもしれません」
これは、シラトリ。
「奥様の冬物の衣類も早めに準備しておきたいです。いっぱい増やしてほしい」
アゲハもいる。
「そうですね。旦那様に用意していただきましょう」
そっと、覗き込む。
部屋の中にずらりと並んだ使用人達。
アオサギ、シラトリ、アゲハは彼らを前に、腕を組んだり顎に手を添えたりしている。
アオサギは手帳に何かを書きつけると、それを胸ポケットに押し込んだ。
三人以外の使用人達は、みな、俯き、静かに立っていた。
その姿には微塵も生気を感じさせない。
異様な光景だった。
明かりが一つも灯されない部屋には、月光だけが、落ちている。
鼓動が耳のそばで鳴っている。
知らずに、私は唇を噛んだ。
アオサギが机の上に置かれていた木箱を手に取る。
その蓋を、開けた。
「我が眷属よ。戻りたまえ」
彼がそう告げた途端――
使用人の輪郭がふっと白くほどけ、 紙片になって箱へ吸い込まれていく。
もう一人、また一人。
箱に、収められていく。
私は口元を手で覆った。
悲鳴をあげてしまわないように、強く押さえる。
最後の一人。
箱にうまく入らず、はらりと、床に落ちた。
「落ちましたよぉ」
アゲハが、慣れたようにそれを拾う。
それは――小さな、白い人型の紙。
「え」
思わず声が漏れてしまった。
火の灯されていないオイルランプが、手から滑り落ちる。
――ガシャン。
三人が、顔を上げ、目を見開いた。
「……奥様!」
一歩下がる。
「ご……ごめんなさい!」
踵を返し、走った。
「奥様!!」
三人の私を呼ぶ声がする。
振り向けなかった。
立ち止まれなかった。
私は自分の部屋まで、駆け戻った。
「……どうしましょう! 奥様にバレてしまいました」
アゲハが目も口も大きく開けて、アオサギを振り返る。
「旦那様はまだ黄泉にいらっしゃる……。すぐには戻られない……」
シラトリはアゲハの肩に触れると、彼女の体を廊下に向けた。
「アゲハ……とりあえず奥様についていてさし上げて。説明は……旦那様に相談してからの方がいいわ……。のらりくらりかわすのよ」
「えぇ……私にできますかね」
「……頑張って」
「はぁい……」
アゲハが渋々歩き出す。
その背を見送り、アオサギとシラトリは目を合わせた。
そして、大きくため息をつく。
「これは……相当お叱りを受けるでしょう……」
「アオサギ……。覚悟しておきましょう」
「そもそも、隠し通せるとは思えませんでしたからね」
二人は繰り返し、ため息を吐いた。




