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七、水面の音


 空が、青い。

 

 蹄の音が丘を渡っていく。

 雲の影がゆっくりと地面を這った。

 風が草原を波打たせ、それを追い越すように、馬が駆ける。


 私がその景色に歓声を上げると、旦那様の腕に少しだけ力がこもるのがわかる。


 私は、この日、旦那様に抱えられるようにして馬に乗っていた。

 


 ――そう、私たちは、王都近郊の湖に向かっているのだ。



「お天気が良いですね。とっても気持ちいいです」


 振り返ると、至近距離で旦那様と目が合う。


「……あぁ、そうだな」


 私はまじまじと旦那様の顔を見つめた。

 彼は、困ったように眉を下げている。

 私が前を向くと、背後からほっと息を吐く気配がした。


 ――……旦那様。


 耳が赤かった。

 あれ、多分照れているのよね……。


 ――なぜ?


 旦那様は、日頃、距離が近い。

 食事やお茶の際は隣に座るし、時折頬や髪にも触れてくる。


 だからきっと、私は彼に嫌われてはいないのではないかと思っている。

 そう考えて最近はまた、夜は夫婦の寝室で過ごしているのだけど、やっぱり彼が来ることはない。


 ――“白い結婚”でないといけない理由が、あるのかもしれない。


 風が私の髪をなびかせる。

 今日はアゲハが崩れないようにときっちり結ってくれたが、後れ毛がそっと首筋を撫でた。




 

 鉛色の湖面。

 そっと覗き込んだ。


「落ちないようにな」


 私が振り返ると、木に馬を繋いだ旦那様が私に歩み寄ってくる。

 

「レイク・ヴェスパーより濁っているんじゃないか?」

「ヴェスパーは深さもありますから……」


 水面に浮いている葉が、風に揺らされて、踊るようにくるりと回った。

 

「のんびりとこのあたりを散策しよう。

 シラトリがランチボックスを持たせてくれた。腹が減ったら食べようか」

「はい。楽しみですね」


 旦那様が肘を差し出す。

 そこに、そっと手を通した。

 並んで歩き出す。


 ――なんだか、本物の夫婦みたい。


 今は人はいないけれど、王都から近いからか、湖のまわりの小路は整えられていた。

 遠くには白い木造の建物も見える。旦那様があれは休憩施設だと仰っていた。


 木漏れ日が下草を濡らしている。

 歩くたびに、それはほどけては結び直されていた。

 水の匂いを含んだ涼やかな風。

 白い水鳥が湖面に降り、ゆったりと泳ぎ始めた。

 

 隣の旦那様の顔を見上げる。

 切れ長の黒い瞳と、目が合った。

 優しく細められる。


 今なら……聞けるかしら。


「旦那様……」

「ん?」

「白い……」


 旦那様の視線が水鳥に滑る。


「そうだな。白いな」

「その……」


 ため息が出た。

 質問する角度を変えよう……。


「旦那様。私たちの結婚は王命ですけれども……私は“王命”である理由は知らされていないのですが、ご存知ですか?」


 水の揺れる音。

 水鳥がひと鳴きだけした。


 顔を上げると、視線はまっすぐと絡まる。


「私は……旦那様のお仕事も知りませんし……その……お世継ぎの必要はないのでしょうか……」


 言った!!

 顔がじわじわと熱くなる。


 足元を見つめた。

 旦那様が誂えてくださった乗馬服。ところどころに施された細やかな刺繍が光を返している。


「必要ない」


 顔を上げる。

 旦那様は真っ直ぐに前を見ていた。


「でも……王太子殿下が……」

「あぁ……何か言われたのか」


 小路の砂利を踏む音。

 じゃり……と小さく音を立てる。


「王家には血を残せと言われた。せめて、結婚しろと。

 結婚しなければ媚薬を含ませると脅かされた」

「え」

「あの男だ。悪気なくやりかねないだろ」


 旦那様の腕に触れている手に、力が知らずにこもる。


「王太子殿下と旦那様は親友なのでは……」

「……あいつと俺が親友……?」


 横を見ると、見るからに嫌そうに眉をひそめている旦那様。


 ――そんなお顔もするのね。


「あいつは愛想だけで人を絡め取るような化け狐のような男だ。信用するな」

「ふふ」


 私が笑うと、旦那様もふっと笑った。


「結婚するなら、あなたがいいと言った」

「え」


 旦那様が空を見上げている。黒髪が静かに光を滑らせていた。

 青い空を、ゆったりと雲が流れていく。


「……私は……失礼ながら王命が下るまで旦那様のことをあまり知りませんで……。

 いつ……」

「だろうな」

「いつ……私のことを……。

 ……旦那様が私を選んでくださったということですか?」

「湖に、もう少し寄ってみようか」


 肘に添えていた手に、旦那様が反対の手で触れる。

 そして、ふっと引かれた。


 ――それは、教えてはくださらないのね……。





 湖岸は少し湿っていた。

 滑らないように、ゆっくりと歩く。


 旦那様は少し下がって、遠くの森を静かに見つめていた。

 

 しゃがみ込んで、湖面を見つめる。

 向こうに並ぶ木立が水面に写っていた。


 ぽつり、ぽつりと湖面が揺れる。

 

 ――魚がいるのかしら?


 風が強く吹いた。


 髪を押さえる。

 葉擦れの音。

 湖面に波が立つ。


 一瞬――

 鉛色の湖面が、淡く、色を失ったような気がした。


 『おいで』


 私は湖面に手を伸ばした。


 冷たい水。


 チャプ……、と、手のひらですくう。


 『こちらへ』


 もう少し深く、手を、水へ――


 

 誰かに、強く手を引かれたような、そんな気がした。

 身体が、水に飲み込まれてしまうような――


 呼吸が止まる。


 肺が一瞬にして水で満たされてしまったかのように。


 世界が、反転する。



 その時――

 強く腰を引かれた。


 

 驚いて振り返ると、背から私を抱く旦那様。

 私の手は、肘まで濡れていた。


「落ちてしまうところだった」

「あ……」


 旦那様は湖岸から少し離れたところで私を離すと、鞄から布巾を取り出し、私の手を拭った。


「……湖岸は滑る」

「……はい。

 助けてくださって……ありがとうございます」


 今。

 私、滑ったわけでは……。

 

 顔を上げる。

 旦那様の黒い瞳。

 

 赤に、滲んでいる。


「え……?」


 もう一度目を凝らす。

 

 ――いえ……。いつもの、黒い瞳だわ。


「……ランチにして、それから王都に戻ろう」

「……はい」


 旦那様が、離れる。


 ――今のは……?


 また、風が、強く吹いた。



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