十、触れる手
ジュリアン・オルダーヴェイル王子は、自身の執務机に置かれていたそれを手に取った。
「また身上書?」
彼の背後、大きな縦長の窓から差し込む明かりは、金色。それは光の層をなし、緩やかに部屋を満たしていた。
ぱさっと音を立てて、身上書はろくに開かれずもせずに机上に戻される。
ウォールナット材の大きな机。
端にはオルダーヴェイル王家の紋章が彫られ、一部だけ螺鈿が施されている。
銀の双剣、そしてその上に静かに佇む金の梟。
それが、かすかに光を滑らせていた。
「まだ決められないよ。ほとぼりが冷めてから――」
「殿下……。もう、五年です」
ジュリアンが顔を上げる。
机の向こうに立つ彼の侍従――オズワルド・フェンは静かに王子を見つめた。青みがかった黒髪に藍の瞳の彼は、情けなく眉を下げている。
「長い? 僕は短いと思っているんだけど」
ジュリアンが軽く笑うと、オズワルドはそっと視線を下げた。
「世間は、長いと思っていますよ」
「そ。じゃ、“どれにしようかな”で決めようか。それともババ抜きにする?」
オズワルドの口元がわずかに引き結ばれるのを見て、ジュリアンは小さく息を吐いた。
「オズ。……そうだな。
君の目で、僕と相性の良さそうな女性を選んでくれないか。
その人と、会ってみるから」
オズワルドがパッと顔を上げる。
「会うだけだよ」
オズワルドの顔がわずかに綻び、ジュリアンは小さく笑った。
「あぁ、あと、魔獣のような僕の弟妹を手懐けられる女性がいいかな」
「殿下と話せる女性なら、そのあたりは問題ないのでは? お二人の方が大人しいと思いますし」
「……オズは僕をなんだと思ってる?」
「ミサゴ様はよく“化け狐”だと」
「オズ、君は僕の侍従なんだよね? まさか君まで僕を“化け狐”だと……?」
オズワルドは机上の身上書をまとめて手に取ると、一歩下がって一礼した。
「逃げる気?」
オズワルドが下がる。
「おい! こら!」
扉が閉められるのを見て、ジュリアンは苦く笑う。
「……全く」
ゆったりと脚を組み、後ろの窓を振り返った。
霧の王都。
空は、白く霞んでいる。
「五年か……」
高い背もたれに頭を預けた。
「もう……そんなに経つのか……」
彼は、そっと瞳を伏せた。
◇
旦那様は、眠りを必要としない人だった。
昼は邸宅でのんびりとお過ごしになり、夜になると“黄泉の案内人”の仕事に出ていかれる。
あの日以来、私は朝の支度を整えると、一度旦那様のお部屋へ向かう。時折まだ戻られていない日もあるが、大抵は本を読んで静かに過ごされている。
「おはようございます。旦那様」
彼が本から顔を上げる。
黒く塗られたケヤキ材の肘掛け椅子。その脇にも同色の小さなテーブルが一つ置いてある。
「おはよう。ベアトリス」
旦那様の高襟の白いシャツのボタンは、上まできっちりと留められているが、ベストなどは脱がれ、シャツの上にはニットジャケットを羽織っているだけだ。
後ろで控えていたアオサギに本を渡すと、襟元を整えながら彼が立ち上がる。
物が極端に少ない部屋。
窓にはカーテンも掛けられておらず、肘掛け椅子、テーブル、それからクローゼット、小ぶりの本棚、簡素な絨毯。
――たったそれだけ。
眠らないのだから、確かにベッドは要らないのかもしれない。
初めてこの部屋に入った時は、広い部屋の中央にぽつんと肘掛け椅子が置かれているだけの景色を見て、つい驚いてしまったものだ。
「今日は、どこで朝食をとろうか。
いっそ鉄道駅の喫茶室へ出かけてもいい」
「外から戻られたばかりなのに……ゆっくりされなくてもいいのですか?」
旦那様の眉がわずかに上がった。自分の手首のあたりを鼻に当て、匂いを確かめる。
「……匂うか?」
「霧の匂いがします」
旦那様が私の前に立った。彼の手首をそっと取って、私も彼の匂いを確かめる。
白檀の香り。
王都の霧の匂い。
それから、旦那様の体温。
彼の手を、自分の頬に当てさせる。視線がまっすぐに交わると、旦那様はその黒い瞳をそっと優しく細めた。
「大きな手ですね」
「体が大きいからな」
「……旦那様がお疲れでないのなら駅の喫茶室に行ってみたいです」
「じゃあ行こうか。少し服を整える。待っててくれ」
「はい」
手を離し、お互いに淡く微笑み合う。
アオサギが小さく頭を下げると、彼は旦那様のウエストコートやクラヴァットを取りにクローゼットへと歩き出した。
「ふふ」
笑い声がして振り返ると、にこにこしているアゲハ。
「旦那様と奥様は仲良しですねぇ。
なのに、なぜまだ交尾はされな――むぐっ!」
慌てて戻ってきたアオサギに口を塞がれ、アゲハはそのまま旦那様の部屋の外へと連れて行かれた。「なんでですかぁ!」と文句を言うアゲハの声が廊下から聞こえてくる。
旦那様は小さく息を吐きだすと、自分で着替え始めた。
「ベアトリス。不便はないか」
ウエストコートのボタンを留めながら、旦那様が言う。私は、クローゼットから淡いグレーのクラヴァットを選んで手に取った。
「ありません」
旦那様はほとんど無表情のまま、廊下を指差す。私はつい笑ってしまった。
「アゲハですか? 可愛くて癒されていますよ」
「そうか。なら、いい」
旦那様が少しだけ屈む。その首にクラヴァットを掛け、結んだ。
至近距離で、目が合う。
思わず頬が熱を持った。
私の気持ちは、旦那様に伝えた。
旦那様が私を選んでくださったことも、聞いた。
きっと旦那様は……私を嫌いではないはず。
だけど、抱き合うより先のことは、まだしたことがない。
この先も、することはないのだろうか……。
「アゲハが戻って来ないな。あなたの帽子や手袋も必要だろう?」
「……はい」
「あなたの部屋に取りに行こう。アオサギの説教が始まったのかもしれない。勝手に支度をして勝手に出かけよう」
「ふふ。そうしましょうか」
旦那様が肘を差し出す。私はそこに自分の腕を絡めた。
自分の部屋に戻るだけなのに、こんなに楽しい。
顔を上げると、柔らかい黒い瞳。
胸の奥がほわりと温かくなる気がした。
――見つめあって、微笑み合えるだけで、満たされてしまう。
だから、これで良いのかもしれない。




