十一、狐の婚約
美しい女性だと思った。
ジュリアンは瞳を細めて、彼女に手を差し出した。
木漏れ日が、つばの大きな白い帽子に触れている。そこからのぞく蜂蜜色の髪は、艶やかだった。
彼女――マーガレット・アッシュフォードは、彼のために選ばれた婚約者候補の女性だった。
ジュリアンはマーガレットの手を引き、王城庭園の池へと導く。
池にかけられた石橋を、ゆっくりと歩いた。マーガレットが、ふと、水面をのぞき込む。
波紋。
浅い水の底が、揺れている。
「あら、お魚」
ジュリアンは足を止め、彼女に並んで池を見下ろす。
「小さい魚がいるんだ。今どこにいる?」
「ほら、あちらに」
マーガレットが帽子を押さえながら、もう片方の手で示した。その先にジュリアンは視線を向ける。
「よしきた。僕が取ってきてあげよう」
「……まぁ!」
袖を捲くる仕草をすると、マーガレットが驚いて彼の肘に触れた。
「殿下。まさかそんなこと――」
ジュリアンが笑う。
「冗談だよ」
マーガレットがその翡翠の瞳を見開く。
遅れて、ほっと息を吐き出した。
「もう……殿下ったら」
ジュリアンは口元を少しだけ緩める。
――彼女なら……きっと喜んで“本当に? お願い!”なんて言っただろう。
レースの手袋をはめた手を口に当てて、マーガレットは穏やかに笑った。
――……彼女なら“私がとってくるわ!”と言って、きっと侍女に叱られるんじゃないかな。
マーガレットの蜂蜜色の髪は昼の光を柔らかく返し、その深い翡翠の瞳はおっとりとした彼女の思慮深さをよく表している。
――クラリッサは、華やかな赤毛に、落ち着きのない水色の瞳だった。
(比べるなんて、最低だ)
「マーガレットは魚が好きなの?」
「見るのは好きです」
「……食べるのは?」
「……食べるのも、好きです」
「僕は食べる方が好きだな。肉はもっと好きだ」
マーガレットが笑う。
ジュリアンは再び彼女に手を差し出し、マーガレットはその手に指先を添えた。
歩き出す。
木立の葉が、風に揺らされる。
葉擦れの音。
魚が跳ねる、水の音。
「僕の妻は大変だと思うんだけど……どうかな」
ジュリアンが振り返ると、マーガレットはその琥珀の瞳を静かに見つめ返した。
「……覚悟しております」
「……そうか。まぁ、でなきゃこんな話、はなから断るよね」
「断れたかどうかは……」
「身分社会は世知辛いねぇ。こんな男の妻で大丈夫?」
マーガレットが口に手を添え、「ふふ」と笑う。
――穏やかで、だけど、芯があって、とてもいい娘じゃないか。
(笑うと可憐で愛らしいし)
所作も美しい。
身分も、政治的派閥も、何も問題が無い。
――きっと、マーガレット・アッシュフォードはどこを切り取っても、僕の伴侶として申し分ない。
しばらく庭園をそのまま、並んで歩く。
――この娘がいいかな。
大きなブナの木。
その前に来ると、ジュリアンは彼女と向き合った。
「また、会ってくれる? ――婚約者として」
マーガレットが顔を上げる。
その翡翠の瞳に、ジュリアンが映り込んでいた。
「はい。光栄です。殿下」
彼女は、小さくカーテシーをした。
――ねぇ、クラリッサ。……いいよね?
僕はきっと――
そろそろ踏み出さないと、いけないんだよね?
ブラックソーン邸庭園。
そのガゼボで、お茶をしていたミサゴとベアトリスは揃って顔を上げた。
「あ、仲良くお茶してる」
相変わらず先触れもなしにやってきたジュリアンは、侍従のオズワルドを振り切り、一人でここまでやってきた。
霧のない、晴れた庭園。
ガゼボの屋根が作る影は淡く、どこか柔らかい。
ジュリアンはアオサギが慌てて持ってきた椅子に腰掛けると、ミサゴとベアトリスを順に眺めた。
「で……殿下、ご機嫌麗しく――」
「夫人は今日も美人だね!」
ジュリアンが笑うと、ミサゴは眉を歪めて王太子を見据える。
「邪魔をしてるってわからんのか」
「あれ? 君たち、もうやったの?」
彼の前にカップが置かれ、シラトリが紅茶を注ぐ。その音が静かに三人の間に落ちた。
はじめはきょとんと王太子を見つめていたベアトリスだったが、何の話をされているのか気づくと、その頬がじわじわと赤らむ。
手を膝の上にていねいに重ね、俯いた。
「あ、まだなんだ。仲良さそうなのに」
「デリカシーが無いですぅ! 私だって叱られましたのに」
ベアトリスの後ろに控えていたアゲハが思わず声を上げると、シラトリが珍しく強くアゲハを睨みつける。
「俺よりも……殿下の方こそ、世継ぎは必要だろうに」
相変わらずベアトリスのすぐ隣に椅子を置いて座っていたミサゴは、ゆったりと脚を組み、カップに口をつけながらそうこぼした。
ジュリアンはまた声を立てて笑う。
そして、ゆっくりと胸に手を当て、姿勢を正した。
「聞いてくれ。ミサゴ。僕、婚約が調いそうなんだ」
「へぇ」
ミサゴの短い返事に、ジュリアンは手を叩いて笑った。
「君、全然興味ないじゃないか! あははは! 一国の王太子の婚約だぞ!?」
ベアトリスは顔を上げると二人を見比べ、それから、ジュリアン王太子に向かって柔らかく笑んだ。
「……殿下、おめでとうございます」
ひとしきり笑ったジュリアンは、呼吸を整えると、ベアトリスと同じような表情で淡く笑う。
「……ありがとう。もう、五年も空白だったんだ。王太子妃候補の席は」
「……五年ですか……。あっという間ですね」
その言葉が、妙に胸に残る。
王太子は、静かにカップのソーサーに手を添えた。
「……夫人はそう言ってくれるんだね」
「え? えぇ」
「みんな、早く決めろとうるさかったんだ。五年も決めないのは良くないと言って」
ベアトリスは眉を下げて、小さく頷く。
「クラリッサが死んでしまってから、もう五年だ。
でも、僕にとっては……まだ五年。
未だに彼女のことを、僕は鮮明に思い出すよ」
「……殿下」
彼はカップを持ち上げて一口飲むと、にっこりと笑った。
「……なんてね! しんみりしちゃったかな。
新しい婚約者のマーガレットはとっても美しい人なんだ。今度連れてくるよ。一緒にお茶しよう」
「こ……ここでですか?」
「うん。そう」
ベアトリスとミサゴは顔を見合わせる。
ベアトリスはほとんど領地にこもりきりの令嬢であったし、ここへ来てからもミサゴが必要ないと言うので社交はほとんどしていない。王都の茶会のマナーはあまり詳しくないのだ。
「勉強しておきます……」
ジュリアンは声を立てて笑った。
「ところで殿下の侍従は今日はどうした」
「オズのこと?」
ミサゴが頷く。
「王城に置いてきた。撒いてきたんだ。うるさいから」
ベアトリスはぎょっとしてジュリアンを見つめる。
その時――
「殿下ぁ!!」
邸宅の方から青年の声。
黒髪の男は息を切らしながら、彼らのいるガゼボに駆け寄ってくる。
「やっぱりここにいらしたんですね! ミサゴ様、奥方様、こんにちは」
彼は膝に手を当てて呼吸を整えてから、身を起こした。
「奥方様は、お初ですね。オズワルド・フェンと申します。ジュリアン・オルダーヴェイル王太子殿下の侍従をしております。
オズワルドと気軽にお呼びください」
ベアトリスに向かって、紳士的な笑みを浮かべる。
そして、ジュリアンに体を向けるとその眉を跳ね上げた。
「殿下! 本日は会合があると申し上げたではありませんか」
「あぁ、忘れてた」
ジュリアンはそのダークブラウンの髪に手を当てて、「あはは」と軽く笑う。
オズワルドは王太子の腕を掴み、無理やり立たせ、背を押した。
「お邪魔しました。それでは、ミサゴ様、奥方様、ごきげんよう」
「じゃあね」
二人があれやこれやと話しながら庭園を去っていく。
ベアトリスとミサゴはその背を静かに見送った。
「……嵐のようだな」
ベアトリスはたまらず声を上げて笑ってしまった。




