十二、呼ばれる人
「もし。そこの方」
呼ばれた男が振り返る。
霧に包まれた王都――グレイヘイブン。
青白い光を落としているガス灯が、一瞬だけちらついた。霧に濡れた石畳は割れ、一部剥がれ落ちている。
安煙草の煙を燻らせている路地裏に座り込む女。
夜だと言うのに、裸足の子どもが連れ立って駆けていった。
どこかからか響いて来る男の怒声。
壊れたオルガンの音。
油と、どこかすえた匂い。
男は、声をかけてきた男――ミサゴを視界にいれると、無視してまた歩き出した。
水の跳ねる音。
「お待ちなさい」
古びた服を着た男は、もう一度振り返ると、逃げ出した。
ミサゴは小さくため息を吐き、シルクハットを片手で押さえて、大きく踏み出す。
一歩。
それは、人の一歩よりずっと歩幅が広い。宙を滑っているかのように、まるで重力を感じさせない動きで、ミサゴは男の前に回り込む。
「俺になんの用だ!」
男は叫ぶが、その声はこの街に響きはしない。
「帰りましょう。黄泉へ」
ミサゴの脇をすり抜けようと男が身を低くするが、黒衣の彼は片腕を伸ばすと、軽々と男を抱え上げた。
「離せ! 畜生が!」
「この世で、何をするつもりなのです」
ミサゴの肩の上で、男が暴れる。
「あの娼婦をぶっ殺してやんだよ! でないと気がすまねぇ!」
「身体を持たぬあなたにはもう何もできませんよ」
ミサゴは男を抱えたまま、歩き出す。
落ちかけたシルクハットを押さえ、杖を持ち直した。
「なんで俺が死んであの婆は生きてんだよ!」
「……諦めなさい」
男に背中を強かに殴られ、一瞬だけミサゴの体がふらつく。
「生者に触れてはなりません。律令で禁じられています。罪を犯した場合、裁殿でさらなる審判を待つこととなります」
低い声。
だが、月も見えぬ霧の夜に、それはよく響くように感じる。
「死者には時の終わりがありませんからね。長い――長い時を無為に過ごすことになりますよ」
コツ、コツ――と、ブーツが石畳を打つ。
「そうして、行き着く先は――ただの地獄です」
低い声で語られる“あの世”の掟。
ミサゴの肩に担がれたままの男は、森の奥に佇む裁殿を思い浮かべ、静かになっていった。
――そうして二人の姿は、霧の向こうに消える。
チャプ……と、水がわずかに音を立てた。
男は、ミサゴが操る小舟の上に寝そべっていた。青空のような、夜空のような、曖昧な空を眺める。
「やるせねぇ……」
ミサゴも、空を見上げる。
「魂は、巡ります。良いことも悪いことも、すべてを忘れ、またあちらの時の輪に戻るのです。あなたのその気持ちも、いずれ静かに消化されますよ」
「良いことなんて、なんもない人生だった」
「では来世が楽しみですね」
「あーぁ……」
男が寝返りを打つ。
ミサゴはそれを静かに見下ろす。
一度シルクハットを整え、また舟を漕いだ。
ギィ……ギィ……と、小さく音が鳴る。
透明な水を、舟が渡っていく。
この男も、初めて黄泉へと案内した日には水をずっと眺めていたが、今は見ようとしなかった。ミサゴも、特に覗くようには言わなかった。
やがて、霧の向こうに、森が見えてくる。
岸辺に立つ女性が、静かに彼らに向かって頭を下げた。
ミサゴも、舟を漕ぎながら軽く頭を下げ、男は身を起こすと、岸の女性をぼんやりと眺めた。
ゆっくりと、舟をつける。
ミサゴが先に降りると、男は渋々といった風だが、それでもおとなしく自分から舟を降りた。
「姉ちゃん。あの門の向こうに行きゃいいんだろ?」
男が小路の先、森の中に見える朱の門を指さす。
「はい。その通りでございます」
女性が丁寧に頭を下げると、男はゆっくりと歩き出した。
その背を、二人は見送る。
門の方から二人、体格の良い人影が飛び出してきて、男を両脇から挟んだ。彼らは女性とミサゴに会釈すると、そのまま男を裁殿へと連れて行く。
改めて、彼女がミサゴに向き合う。
「ご苦労様です。ミサゴ殿」
「いえ。澪殿こそ」
澪と呼ばれた女性は首を振った。
オルダーヴェイル王国の王都の紳士的な服装のミサゴと異なり、異国の着物に袴を合わせた服装をしている。
「逃げ出した死者の担当は私じゃありませんから」
「それもそうでしたね」
三人の後ろ姿が、門の向こうに溶けるようにして見えなくなった。
「……なぜ、逃げ出すんでしょうねぇ?
こちらにしばらくいれば、未練も消えるというのに」
「それほど強い執念があったのでしょう」
「時折、生者の方が呼んじまうこともある」
割り込んできた声の方をミサゴと澪が向くと、そこにはミサゴとは別の地域の担当である黄泉の案内人が、ゆったりとこちらに歩いてくるところだった。
「トビ」
「よぉ、ミサゴ。元気か」
「まぁな」
トビは、櫛でといただけの黒髪に、革のジャケットを着ている。オルダーヴェイル王国の辺境を中心とした地方を担当している男だ。
ミサゴがまだ案内人として立つ前に、彼に指導していた人物――つまり、ミサゴの師匠にあたる。
だが、長寿な彼らは、トビもミサゴも見た目には同世代にしか見えなかった。
「“生者の方が呼んじまう”……というのは?」
澪が背の高いトビを見上げると、彼は一度だけ頷いた。
「生者の死者への執念てやつだな。よく言えば――“愛”かな」
「そうとも言えないと思うが」
トビがミサゴの肩を抱く。
「お前にはロマンがないのか」
「現実を見ているだけだ」
澪がふっと笑う。
「お二人とも、お忙しいのでは? 先に話しかけてしまったのは、私ですけど」
トビはミサゴから離れると、小さく笑った。
「そうだな。まだ、夜の帷は降りたばかり」
「俺は戻る。――ではな」
ミサゴは二人に向かって頭を下げると、乗ってきた船に静かに乗り込んだ。
トビが手を振っているが、ミサゴはそれに返すことはしない。
ミサゴは空を見上げる。
彼には、この空は満点の星空に見えていた。
波が小さく砕ける音が鳴る。
空をしばらく眺め、ミサゴは櫂の柄を握り直した。




