五、黄泉の案内人
オルダーヴェイル王国、
王都グレイヘイヴン。
夜半。
街は、重い霧に包まれていた。
濡れた石畳に、均等に並んだガス灯が青白い明かりを落としている。
どこかのバーから、笑い声とオルガンの音。
道の端に置かれたままの木箱の影を野良猫が通り過ぎていく。
聞き慣れぬ、鳥の鳴き声。
滲んだ月。
その男は、王都を横切るように流れる川を眺めていた。
巨大な石の橋から覗き込むようにして。
その橋の上にもガス灯が並んでいるが、今はちらちらとその灯は揺れている。
男の足元には、影はなかった。
「そこの方」
声をかけられ、顔を上げた。
水の流れる音が、少し大きくなった気がする。
黒いシルクハット。
黒い外套。
真っ白なシャツには黒いクラヴァット。
手に握られている黒い杖のわずかな銀の装飾だけが、ガス灯の明かりを鈍く返していた。
黒い紳士は帽子を少しだけ持ち上げて、男に向かって挨拶をした。
「お迎えに上がりました」
男は、その紳士に近づいた。
「子どもの見た目の天使が来るのだと思っていた」
「……可愛げがなくて申し訳ない」
「いやいや。贅沢は言わんよ」
男は年齢を刻んだその皺を濃くして、小さく笑う。
「……やっと、妻に会える」
「それはそれは……」
二人は並ぶと、ゆっくりと歩き出した。
王都の霧。
それは二人の姿を飲み込んでしまう。
もう一度だけ、鳥が鳴いた。
まるで合図であるかのように。
男は、小さな渡し舟に乗っていた。
黒い紳士が立ったまま、ゆっくりと漕いでいる。
川の向こう岸は、見えなかった。
霧がずっと先を覆っている。
チャプ……チャプ……と、波の音。
男はぼんやりと、霧を眺めていた。
目を凝らせば、夜空が見えるような気がした。
青空と思えば、青空にも見える。
川の水はひどく澄んで、透明だった。
水が透明であると分かるのに、底は見えなかった。
「覗いてみてごらんなさい」
「……何も、見えんが」
「いいえ、きっと見えますよ」
舟の縁に両手をつき、水面に顔を寄せてみる。
「あぁ……」
――若い日の、妻だ。
「彼女は美しいな」
「今でも、お美しいことでしょう」
「そうか」
「えぇ」
水の音。
男はいつまでも、水を覗き込んでいた。
やがて、霧が晴れてくる。
川岸の向こうは、森のようだった。
そこに、また人が立っている。
男が顔を上げてその女性に向かって軽く頭を下げると、川岸の人も頭を下げた。
舟が、ゆっくりと岸につく。
黒い紳士が先に降りて、男が舟を降りるのを手伝った。
岸の草を踏むと、青臭い匂いが立ち上がる。
視線で、あたりを見渡した。
森の中へと続く小路。
その先に朱で塗られた門が見えた。
更にその奥には平屋の建物があるようだが、樹木に邪魔されて、よくは見えなかった。
黒い紳士が一礼した。
「私はここまでです。どうぞ、良い旅路を」
「……ありがとう」
男が、微笑んだ。
川岸にいた女性が、男に笑いかける。
「あちら、裁殿となります。どうぞ、ごゆるりとお向かいください」
彼女が手で小路の先の門を示すと、男は歩き出した。
間違いなく男が小路を歩く姿を確認してから、女性は黒い紳士を見る。
「ご苦労様です。あとはこちらで」
「よろしくお願いします」
「……やはり、王都は忙しいですか」
「人が多いのでね。今宵もあと二人は御案内が必要です」
「ふふ。そうですか。ではまた。
――ミサゴ殿」
ミサゴは軽く頭を下げると、また舟に乗り込んだ。
仕事を終えて、邸宅に戻る。
まだ、夜は明けていない。
執務室で、アオサギの手を借りて手早く服を着替えた。
日頃も黒い服ばかりを着ているが、それでも、一揃い、交換する。
「……旦那様」
「どうした」
「本日の朝食はどちらで」
襟を引いて、服を整えた。
「ベアトリスは、どこで食事を取るのが一番楽しそうだった?」
「バルコニーで召し上がられた時でしょうか」
「じゃあ、そこで。……だが、天気次第かな」
アオサギの一房の黒髪だけが、するりとオイルランプの鈍い明かりを返した。
「……旦那様」
臙脂色のクラヴァットを整え、顔を上げる。
「わたくしめとしては、やはり、血は残されるべきだと……」
「アオサギ……」
ミサゴの黒い瞳が、わずかに赤らむ。
「俺と身を繋げば、彼女はきっと知ってしまう」
アオサギの瞳が揺れた。
「知れば、引きずり込まれる」
窓の向こう、東の空がわずかに白みを帯びる。
「引きずり込まれれば、もう、取り戻せない」
「……旦那様」
ミサゴは瞳を伏せた。
「知られてはならない」
赤い陽が、ゆっくりと部屋に滑り込んできた。
それは彼の髪も、肌も、赤く染めてしまう。
「……ここにいてくれるだけで、俺はじゅうぶんだ」
ミサゴが瞳を開ける。
真っ黒な夜の瞳。
彼は執務室の扉に手をかけ、開けた。
アオサギは、黙って主に頭を下げるだけ。
ミサゴ・ブラックソーン。
――彼は、黄泉の案内人。
彼の夜は、こうして、明ける。




