四、見知らぬ人たち
女主人としての仕事をこなすための、私の書斎がある。
旦那様と朝食をとったあとに、私は毎日その部屋に入る。
ここも、白と水色と、明るい木の部屋だった。広い部屋ではないが、窓が大きく、よく陽が入る。
一通り書類を確認したあとは、邸宅を見て回る。
掃除は行き届いているか。
傷みはないか。
季節が変われば、調度品の入れ替えだって必要となる。
だが、女主人の一番の仕事だと思われる使用人の管理はしなくていいと言われた。なぜかと問うと、“旦那様のご意向だから”と。
――旦那様の“仕事”に関わるのかしら?
でも、正直、ほっとしている。
――なぜなら、私は未だに、使用人の顔と名前が覚えられないからだ。
庭園を見て回る。
どこもよく手が入っている。
庭師の少年が、しゃがみ込んで作業していた。
すれ違いざま、声をかける。
「美しい庭ね。いつもありがとう」
彼は、わずかに振り返り、笑んだ。
「奥様、こちらこそ、ありがとうございます」
そのまま、通り過ぎる。
――少年?
振り返る。
庭師の彼は、成人したてくらいの青年だった。
――青年? あれ? でもさっきは……。
目を凝らす。
どう見ても、青年だった。
彼は私の視線に気づくと、立ち上がって深く頭を下げた。
とても、感じの良い青年だった。
私は首を傾げながらも、そのまま石畳の小路を進んだ。
渡り廊下で本邸と繋がっている使用人棟が見えてきた。本邸が横長の大きな建物なのに対し、使用人棟はごく小さな建物だった。邸内で見かける使用人の数の割には、小さすぎる気もしている。
――通いの使用人が多いのかもしれないわね。
リネンが入った籠を抱えた二人組の女性使用人が歩いているのが見える。
二人は背格好がよく似ていた。
全く同じ歩幅で歩いている。
こちらへ、向かってくる。
――あれ? 同じ顔?
思わず、ぞわりと背筋が冷えた。
「奥様、おはようございます」
彼女たちが、にこやかに笑顔で挨拶をしてくれる。
――違う。全然違う顔だわ。
金髪の小柄な女性と、まっすぐな鳶色の髪の細目の女性。
「おはよう。
あの……ごめんなさい。名前を覚えるのが本当に苦手で……。
あなた達の名前を教えてくれる?」
名前を教わる。
「ありがとう」
彼女たちは、にこやかに歩き去っていった。
私も歩く。
ふと、振り返る。
籠を抱えた二人の女性。
髪色は二人とも黒だった。
同じ腕の角度で、籠を持っている。
――え?
――さっきは……。
額を押さえる。
――名前は?
――つい今しがた聞いたばかりなのに、もう思い出せない。
こんなに、名前を覚えるのが苦手だったかしら……。
実家のシルヴァミア子爵家の使用人は、王都のタウンハウス、領地の屋敷、そこに勤めている全員の顔と名前を把握していたはずなのに。
「奥様。お天気が良いので、お昼は外で召し上がりますか?
サンドイッチとかにしてもらって」
アゲハが隣に並び、にっこりと笑ってそう言った。
ほっと息を吐く。
「それも、素敵ね」
「旦那様も呼べば来ると思いますよ。呼びますか?」
「え……。お忙しいのではないかしら」
「大丈夫ですよ。奥様がお嫌でなければ、声を掛けておきますが」
「では……お声掛けだけでも」
「畏まりましたぁ」
気の抜けた返事。
肩の力も、つい抜ける。
使用人の名前も、ゆっくり覚えていけば……いいか。
「来週行こうか」
昼食。白いガゼボ内のテーブルにはサンドイッチと、紅茶が並んでいる。
私はカップを置くと、隣に並んでいる旦那様を見上げた。
旦那様はなぜか、テーブルを挟んで向かいに置かれていた椅子をわざわざ移動させ、私の隣に置き、そこに座っている。
「……どちらに?」
「湖」
「あ……はい」
「他に見に行きたいところがある?」
「え……いえ……特には……」
「早朝に出れば、南の港町にも行けるかもしれないと、後で気づいた」
「……港? 海ですか?」
「そうだ」
海か……。
シルヴァミア子爵家の領地には大きな河川が流れている。特に領地内にはほとんど海にも見える程の幅の広い水域があり、そこから南方の別の領地へと流れていくのだ。
川ではあるが、シルヴァミア子爵領の領民からは“レイク・ヴェスパー”と呼ばれて親しまれている。
だから、湖には馴染みがある気がしている。
だが、本物の海は見たことがない。
「海も……見てみたいです」
「じゃ、日を分けて両方行こう」
顔を上げると、視線が交差する。
「……旦那様はお忙しいのに」
「……妻の喜ぶ顔を見てみたいと思うのは、変なことか?」
――“白い結婚”の夫婦の場合は、変なのでは?
「えっと……どうでしょうか」
旦那様の黒い瞳が、柔らかく細められる。
なぜか、胸がギュッと締め付けられた。
彼が、ふっと笑う。
「変ということか。眉間にしわが寄っている」
彼が指先で私の眉間にちょんと触れた。
びっくりして目を見開くと、彼はふっと笑った。
背の高い旦那様は、瞳も切れ長で、黙っていると硬質な雰囲気がある。
それが、とても丸くなった。
私も、釣られるように笑った。
旦那様が手を伸ばし、私の頬にそっと触れる。
「……やっと笑ってくれた。
俺はつまらない男だから、あなたを楽しませてあげられない。ときどきあなたをどこかへ連れ出すことを、許してくれないか」
途端に、頬が熱を持つ。
彼の瞳が、どうしようもなく優しくて、私は言葉が出なくなってしまった。
だから、ただ、頷いた。
彼の手が、離れる。
私はそれを目で追った。
顔を上げると、控えていたアゲハと目があった。
彼女の瞳がキラキラと輝き、口元を手で覆っているのを見て、急に私は恥ずかしくなった。
私は頬を押さえ、俯く。
――旦那様はいったい、どういうつもりなの……。




