三十六、朱京の夜
「よぉ、ミサゴ」
岸辺に立ち、澪に死者を預けたミサゴは声の方へ顔を向けた。
「トビ」
ミサゴの師匠であるトビが、ゆったりと下草を踏みながら彼に近づく。櫛を軽く通しただけの少し長めの黒髪が、ふわりと揺れた。
「こちらはもう終わったんだ。お前は」
「王都の方も終いだ」
「なら久々に一杯付き合え」
トビがミサゴの肩を抱くと、ミサゴは無表情のまま、森の入口に立つ赤い門に目を向ける。二人を見ていた澪は、にっこりと笑った。
「いいですね。こちらはまだ終わらなそうです」
「じゃあ、澪殿はまた今度な。
ミサゴ、朱京のいつもの店でいいだろう?」
「俺はまだ行くとは言っていないが」
「え!? 断るつもり!? 世話になった師匠の誘いを!?」
「……」
澪が声を立てて笑う。
「お二人とも、楽しんでらしてください」
トビはミサゴの肩を抱いたまま澪に手を振ると、そのまま歩き出した。
裁殿の門を素通りして、草地を歩いていく。
下草を踏む音。
空には満天の星。
トビがミサゴから離れると、二人は言葉も交わさずに静かにまっすぐに進む。
道は草地から砂利道に変わり、やがて土へと変わる。
顔を上げれば、赤提灯がどこまでも並ぶ大通り。平屋造りの建物がいくつも軒を連ねていた。人ならざる者たちが思い思いに歩いている。
ここは、鬼たちの住まう国――鬼國。
その首都となる朱京。
店に呼び込む声もあれば、喧嘩する声もある。酒を飲んで楽しそうに大声で笑っている者も、気難しげな顔で黙々と歩く者もいる。
喧騒。
雑踏。
人の多いこの街の先には、瓦の城がぼんやりと見えた。城壁に灯された篝火が、ひっそりと揺れている。
トビとミサゴは迷うこともなく、朱京の中でも最も栄えた大通り――千灯大路をまっすぐに進んだ。
「おぉ、ミサゴじゃねぇか! 久しぶり! なんかデカくなったな!」
ミサゴが声の方へ顔を向ける。
街にポツポツとある物見台にいた男が、上から彼らに向かって手を振っていた。ミサゴは軽く手を上げるだけで返す。
男は異国の着物を纏い、その胸元はほとんどはだけさせていた。
ここにいる“人ならざる者”たちは、ほとんどが彼のように着物を雑に纏っている。だが、ミサゴのようにフロックコートを着ている者もいれば、アザラシの皮で作られた分厚いコートを羽織っている者、ほとんど裸の姿にボディペイントを施している者だっている。
人の姿をしていない者さえ、ここにはいるのだ。
そんな雑多な街を進み、二人は慣れたように一軒の店に足を向ける。
「親父! 二人。二階の座敷でいいか?」
暖簾をくぐり、トビが中にいた店主に声をかけると、店主は仏頂面のまま上を指さした。
「いいってさ。行こうぜ」
店の入口でそれぞれ靴を脱ぐと、二人は木床を踏んで進む。一階席では低い机がいくつも並び、その上の馳走に向かい合って談笑している者たちが幾人もいた。あまりにも騒がしくて、声を相当大きくしないと互いの声が聞こえないほどだ。
その脇を通って、人一人が通れる程度の狭い階段を上り、上階へ。
伸びる木床の廊下。
その脇には狭い個室が並ぶ。
ふすまが開いたままの部屋の一つに入ると、い草の香る畳の上にぽつんと横長の机が置かれていた。
部屋の端に積んであった朱色の座布団をミサゴが二つ取って、一つをトビに手渡す。
机に向かい合うようにして腰を下ろすと、間を置かずに女の店員が湯飲みに入った茶を持ってきた。
「トビじゃないか。あんたまた来たのかい?」
「うるせぇな。儲からせてやってるんだろう?」
二人が笑い合っているのをよそに、ミサゴは女が持ってきた品書きの紙を眺める。いくつか品を注文すると、女が下がった。
襖が閉められ、やっと、喧騒が遠のく。
ミサゴは座ったままフロックコートを脱ぐと、その辺に放った。
「あれ」
顔を上げる。
トビの視線が襟に向いているのに気づいて、指先で襟元に触れた。
「お前……それは?」
「妻が、刺してくれた」
「……よく見せてみろ」
「断る」
トビは膝立ちのまま机を回ってミサゴのそばに寄るが、ミサゴはそれを腕で払う。
「来るな。鬱陶しい」
「いいから見せろって」
払った手をトビが捕まえると、そのカフスをまじまじと眺めた。
指先で刺繍をなぞり、トビは、息を呑む。
「これ……古い巫女紋じゃねぇか……」
「……そうだ」
互いに目を合わせる。
トビは眉を寄せると、ゆっくりと立ち上がり、自分の席に戻った。
「お前……結婚したんだったな。しかも王命で」
「そうだ」
「相手はもしや……シルヴァミアのあのお嬢さんか?」
ミサゴはあぐらをかき、膝に手を置いた。そして、視線をふっとそらす。
「なぜ、お前にそもそも王命が下ったんだ?
その上、相手は水の巫女? どうしてそうなった」
「王太子は、黄泉の案内人が長寿なことは知っていても、跡継ぎを残す年齢については詳しくない。
俺がオルダーヴェイル王国でいう“適齢期”になっても結婚しないから焦ったようだ」
「お前とあの王太子は妙に仲がいいからな」
「別に仲は良くない……」
「嘘つけ」
襖が開き、店員たちが料理を手際よく、机に並べていく。
そうしてすぐに彼らは部屋を離れた。
また、襖が閉まる。
トビは、まるで他人事のように先に酒に手をつけるミサゴを見て、目を細めた。
「ミサゴに王命が下った理由は理解した。
なぜ相手が巫女なんだ?」
「……」
「まさか……お前が指名したなんてことは」
「トビ、食え。美味しいから」
ミサゴは皿を手でトビの方に押しやる。
自分は別の皿を引き寄せた。
「おい、誤魔化すな」
「……妻は、自分が巫女であることを知らない。だから、オルダーヴェイル王国では、彼女はただの子爵令嬢だ」
「いやいやいやいや……だからってお前……」
「俺は彼女を抱かない。邸宅には守護を施してある。力を持つ使用人たちもつけた」
「だが……。横から掻っ攫ったようなもんだろ……」
ミサゴは黙ったまま、つまみを口にし、酒を煽る。
「俺だって、あの方のやりようは好みじゃない。お前がずっと彼女を気にしていたことは知っている。せめて俺にも相談してくれよ……」
「俺も、まさか本当に嫁いできてくれるとは思ってなかったんだ……」
トビは大きくため息をつくと、杯を持ち上げた。
「何かあったら、相談しろ。いいな」
「……あぁ」
個室にある窓の障子越しに、かすかに通りの喧騒と、赤提灯の明かりが滑り込んでくる。
二人はちびちびと酒を飲みながら、その先は他愛もない話をした。
この街は、いつまでも夜が続く。




