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三十五、名前を呼んで


 潮の香り。

 波の音。

 白い石壁に橙の屋根。


 霧もなく、よく澄んだ空が見える。

 ここは、王都よりも色がはっきりとした街だった。


 蔦の這う石壁の家に囲まれた狭いレンガの道を、旦那様と歩く。


 街の隙間から、鉛色に揺れる海が見えた。光が跳ねるように反射し、その光の粒を裂きながら船が港を出入りしている。


 今日は、以前旦那様と話していた港町に来たのだ。


 王都からさほど遠くはないというのに、街並みも、住む人の雰囲気も随分と違う。

 

「馬車で来たほうが良かったかもな」


 市場の方へ目を向けた旦那様が、ぽつりとこぼした。


「でも、馬の方が速いですもの。

 馬でないと、夜までに戻れないのではありませんか?」

「一日くらい……」

「一日くらいお仕事を休まれてもいいのですか?」


 私は思わず顔を上げ、旦那様の横顔を見る。一日くらい休めるのなら小旅行に行けるのではないかしら。


「良くはないが……」


 残念。


「そうですか……」

「病が流行ったときなどは、一人では案内しきれずに数日待たせてしまうことはざらにある。

 だから実際は問題ないのかもしれないが、意図して休んだことがない。

 ……どうなのだろうか」


 顎に手を添えて考えているその端正な横顔を、静かに見つめた。


「少し、海に近づいてみたいです」


 海に視線を向けた。海岸に続く階段を見つけ、それを手で示す。


「あそこから、降りられそうですね」


 ふいに、私が腕を絡めていた旦那様の肘に力がこもる。少しだけ引かれ、私の肩が旦那様の腕に触れた。


「……俺から離れないように」


 顔を上げる。

 旦那様の宵闇の瞳に、私が映り込んでいるのが見えた。


「……私、前科持ちですからね。湖に落ちそうになりましたし。

 でも、海の近くには柵もあるようなので、そこなら……」

「あなたが近づかなかったとしても、向こうが――」


 旦那様が何か言いかけて、口をつぐむ。


「向こう……とは?」

「何でもない。行ってみようか」


 石の階段を下り、黒い柵に近づくとそこに手を置いた。強く香る潮の匂い。故郷に流れるヴェスパー川は淡水だったから、まったく匂いが異なる。


 波の音。


 近くの市場から聞こえる喧騒が、一瞬遠のく。

 瞳を伏せ、音に耳を澄ませた。



 

 耳元によぎる――轟音。

 体を斬りつけ、押し流そうとする濁流。




 ハッとして、旦那様の腕を引き、後ろに下がる。


「……ベアトリス?」

「あ……」


 短い呼吸を繰り返す。

 耳元で鼓動が鳴る。


 胸を手で押さえて呼吸を整えようとするが、全身を脈打つような鼓動は、どうしても治まらない。


「……旦那様」


 旦那様の胸に飛び込み、その体に耳を当てる。


「え……ベアトリス……その……」


 彼の鼓動。温もり。香り。

 瞳を伏せる。


 ゆっくりと、暴れていた鼓動が落ち着いていく。


 長く息を吐きだすと、旦那様がその大きな手を私の背に添えて、ぽんぽんと優しく叩いてくれた。


「ベアトリス、カフェにでも入って休憩しようか」

「……はい」





 海風の抜けるカフェテラス。

 白塗りのティーテーブルを挟んで、向かい合って座った。旦那様はコーヒー、私には紅茶を。カップを口に運び、ほっと息をつく。


「取り乱してしまって……」

「いや……。だが、何があった?」


 カップを置き、海に視線を向けた。


「幼い頃、ヴェスパー川で溺れてしまったことがあって。

 ふいに、その時のことを思い出してしまいました」

「そうか」

「穏やかな日で、川の流れも早くはなかったのですけれど……。

 突然、まるで鉄砲水のような大きな波が立ち、川で遊んでいた私は巻き込まれてしまったんです」


 私は苦く笑う。


「その時、助けてくれたのは少年でした。私より、少し年上の。

 でも、赤い瞳に、燃えるような赤い髪をしていたんです。人ではないような、そんな色。

 旦那様と結婚するまでは“人ならざる者”の存在を知りませんでしたから、あの赤い髪の少年は、溺れかけて混乱した幼い私が見た夢のようなものだったのだと、今までは思っていたのですけれど……。

 もしかしたら本当に人ならざる誰かだったのかもしれませんね」


 旦那様は口を挟まずに、静かに私の話を聞いていた。


「彼が焚き火をおこしてくれて、びしょ濡れの私に言ったんです。

 “良かった”って。優しい声で。

 ――あれが、忘れられないんです。

 彼がいたから、私はその後もヴェスパー川に近づくことを怖がらずに済んだ。

 それでも時々、溺れる夢は……見てしまいます。今も、波の音で思い出してしまいました」


 私が淡く笑って旦那様を見ると、彼はどうしてか、顔色を失っていた。


「……旦那様?」


 旦那様は視線をさっと外す。


「……いや。そうか……そんな事があったんだな」


 旦那様はコートの内ポケットに手を入れると、そこから一揃いのイヤリングを取り出した。


「市場であなたが見ていただろう? 贈ろう」


 小さな真珠のイヤリング。

 私が手を差し出すと、旦那様は一度手を引っ込め、それを握り込んだ。私から背を向けるように座り直すと、イヤリングを包んでいる拳に口づけるような仕草をする。

 一呼吸置いてから、私に向き合うように座り直した。


 旦那様が手を開き、私の手のひらに乗せようとして――動きをとめる。


「あ……」

「……どうしました?」


 目が合う。


「あなたが今身につけている水色のイヤリングを渡したあと、シラトリに叱られたのだった。

 “ラッピングするから、奥様に渡す前に私かアオサギにまず預けなさい”と。

 ……どうしたらいいのだろう」


 私は思わず吹き出した。


「私は気にしませんのに」


 旦那様が私の手のひらにイヤリングを乗せる。私は今つけているものを外してテーブルに置くと、ふと、思いついてしまった。


 顔を上げる。

 目が合う。

 一度目をそらすが、やっぱり旦那様を見る。


「あ……あの……つけてもらえませんか?」


 旦那様は椅子ごと近くに移動してくると、私の手からイヤリングを受け取り、それを私の耳元へ。


「つけたことないから……こうかな」


 旦那様は、最後に確認するように耳たぶに触れる。その指先が、とても熱い。

 両耳分をつけてもらい、旦那様の手が離れる。その手を追いかけて、掴んだ。


「ありがとうございます。いつもいただいてばかりで」

「市場で売ってるものだ。大したものでは……」

「お礼をしたいのに……」

「シャツに刺繍をしてくれた」

「でも、その前にもイヤリングをいただいていますから」


 旦那様の眉がふっと上がる。


「じゃあ……“ミサゴ”と呼んでくれるか?」

「え?」

「あなたは“旦那様”としか、呼んでくれたことがないだろう。

 呼び捨てで、“ミサゴ”と呼んで欲しい」

「……はい」


 旦那様の手を握ったまま、唇を湿らせる。

 意を決して、口を開いた。


「あの……以前も申し上げましたけれど……

 お慕いしています」

「え?」

「ミ……ミサゴ……」


 視線がまっすぐに交わる。

 驚いたような旦那様の顔。


 ――私の気持ちは、以前にも伝えてる。


 旦那様は?

 ……ミサゴは、私をどう思っていますか?


 波の音が、遠くに聞こえる。

 触れられた耳元が、いつまでも熱い。

 


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