三十四、冬の朝
私は、私室の出窓に置かれたソファに座り、窓をぼんやりと眺めていた。
窓についた結露の小さな滴がガラスを伝ってゆっくりと落ちると、別の小さな滴とぶつかり、それは一回り大きくなる。
窓の外は、朝だというのにどこか青白くて静かだ。
並木のそば、庭師の少年が歩きながら吐き出した息が、白くなって空へ昇るのが見える。
部屋の中では、最近は暖炉に火が入れられるようになった。パチリと小さく火が爆ぜる音。
その時、私はハッとして腰を浮かせ、席を立つ。
ブラックソーン伯邸の鉄門が開き、黒衣の男性が歩いて入ってくるのが見えたからだ。
――旦那様が帰ってきた。
足早に扉に向かって歩くと、壁に控えていたアゲハがにっこりと笑み、私と共に部屋を出る。
廊下を抜け、大階段へ。玄関ホールの燭台には火が灯っていた。石床のホールで既に待っていたアオサギに並ぶと、ちょうど玄関扉が開く。
霧の匂いと冬の冷たい空気が、滑り込んできた。
シルクハットを頭から取りながら邸内に入った旦那様は、私に気づくと、少しだけ目を見開く。
「……おはよう。ベアトリス」
「おはようございます。旦那様」
ハットや杖をアオサギに渡しながら部屋に向かって歩く旦那様の横に並んだ。
季節は、冬。
旦那様はオーバーフロックコートを羽織るようになった。ほとんど全身黒だが、オーバーフロックの下にはぶどう色のマフラーも首から垂らすようにして身につけている。
旦那様がそれをおもむろに抜き取った。思わず私が手を差し出すと、旦那様は少し迷ってから、私の手にマフラーをのせる。
「……今日は少し手こずった。帰宅が遅くなってしまったな。
こういう日は、先に朝食を食べていてくれて構わない」
「……お待ちしてます。一緒に食べたいですもの」
旦那様が、ちらとこちらを見る。微笑んで返すが、彼はすぐに向こうを向いてしまった。
預けてもらったマフラーを、なんとなく自分の首に巻いてみる。
――旦那様の香りと温もりがまだ残っている。
つい、頬が緩む。
旦那様はそれを見て、眉を寄せて不思議そうな顔をしていた。
先日――
ブラックソーン伯邸のサロン。
マーガレット様はたびたび我が家にレース編みを教わりに来るようになっていた。テーブルに裁縫箱を広げ、互いに手元を見つめながら、他愛もない話をする。
だがその日は、珍しくマーガレット様がため息をついていた。
「お疲れですか?」
私が言うと、マーガレット様はハッとしたように顔を上げ、急に頬を染める。
「あ……ごめんなさい……」
私が首を振ると、彼女は手を止め、ふっと息を吐いた。
「この間、ジュリアン殿下につい失言をしてしまって……。
しかし……内容が……ちょっと“アレ”なもので……」
「“アレ”ですか? なんでしょう?
今ここには私と、壁にはアゲハとシラトリしかいませんから、話してみては?
楽になるかもしれませんよ」
マーガレット様はゆっくりと息を吐き出すと、私に身を寄せ、声を低くする。
「殿下に“愛妾を抱えられては?”と言ってしまい、ものすごく傷つけてしまったようなのです」
「あ……え!?」
私も手を止め、マーガレット様の翡翠の瞳を見つめた。彼女は恥ずかしそうに俯く。
「その……殿下は……あのように行動がスマートで口が達者な方ですから……。
なんと言いますか……初夜までこの貞操を守りきれる自信がなく……。
決して不誠実な方ではないのですけれども……その……えっと……」
私はなんと言ったらいいか分からず、編み針と糸をテーブルに乗せると、彼女に体ごと向けた。
「口づけは触れるだけの淡いものだけ。それより先はしない……と宣言した日から、あの手この手と口説かれたり、不意に口づけされたりと……心臓がもたないのです」
「……なるほど?」
「ですから、その手の欲求がお有りだとしても、私は応えられませんから、愛妾を持たれては……と……」
「そ……それで……?」
「ものすごくショックを受けられたようで。……泣いてしまわれそうなくらいに……」
彼女は編み針を膝の上に置くと、両手で顔を覆う。
「まだ結婚どころか、婚約の披露もしていない段階で“愛妾”などと、さすがに非常識が過ぎました。
私ったら……なんと不躾なことを!
王太子妃候補失格です!
私があまりにも非常識であるから、殿下に失望されたのです!」
「あっ、そっち!?」
マーガレット様がきょとんと顔を上げる。
「殿下は……その、他の女性に目を向けろと言われたことに傷ついたのではないかと……思ったのですけれど……」
「……え?」
「……違うかしら?」
視線がまっすぐ交わる。
「でも……殿下は殿下ですもの……。お世継ぎが絶対に必要です。
将来的には側室や愛妾も……」
「マーガレット様は、寂しくないのですか?
殿下が、他の女性に触れたり、愛そうとすることを」
「私は王族に嫁ぐ身。愛だけで殿下を独占できるとは思っていませんわ……」
「……そう。
でも、殿下はマーガレット様を独占したいと思ってらっしゃるのよね。ふふ、大変ね。
愛されすぎて、困ってしまったのね」
マーガレット様の頬がじわじわ赤くなる。
彼女は本当に悩んでいるのに、申し訳ないけど、可愛らしくてつい笑ってしまった。
本当のことを言うと、
――少し羨ましく思ってしまった。
マフラーに顔を埋める。
「ベアトリス、俺は着替えてから、またすぐそちらに行く。一緒に朝食をとろう」
「……はい」
「マフラー……気に入ったのか? 男物だが、あげようか」
「あ……ちが……旦那様の香りがするから……その……」
旦那様の動きが止まる。それから「そうか……」と言って、アオサギが開けた扉の向こうへと行ってしまった。
閉まった扉をしばらく見つめる。
――私だって……旦那様と……。
マフラーの先を、ぎゅっと握りしめた。
これまでほとんど使っていなかった居間を整えた。
赤みのあるマホガニー材の家具。身内のためだけの、飾り気は少ないけれど大きめの暖炉。暖炉に向けて置かれた布張りのソファ。それから、柔らかい色調の小さい絵画をいくつか壁に並べた。
朝食や、旦那様と昼間にのんびりと過ごすのは、私の部屋かここで。
窓は大きい。
庭園も、王都の街並みも、この部屋からはよく見える。
ソファに座って待っていると、旦那様が部屋に入ってきて、慣れたように隣に座った。アオサギとシラトリが簡単な朝食を並べていく。
「あの……旦那様」
「ん?」
旦那様がコーヒーのカップを持ち上げ、口に当てる。彼の口角が少しだけ持ち上がっていた。
私は抱えていた布を旦那様に差し出す。リボンをつけて飾っただけの旦那様のシャツ。そのカフスと襟部分にシルヴァミア領の伝統紋様で、刺繍を施した。殿下たちに贈ったものより、もっと複雑な意匠のものだ。
「使っていただけませんか……?」
旦那様が受け取り、リボンを外してシャツを広げる。
「……ベアトリスは、器用だな」
目元が柔らかくなった。私はそれを見つめる。
「ありがとう。使わせてもらう」
その口元。
旦那様が私の視線に気づき、自分で自分の唇に触れた。
「何かついているか?」
「あ……いえ……」
私は視線を下げ、自分のカップを持ち上げる。
――意識しすぎ……。恥ずかしい。
式神の使用人の少年が、暖炉に薪を足しに来た。私はそれをどこかホッとして見つめた。




