三十一、おかえりなさい
扉の開く音がして、私は振り返った。
思わず、ほっと息を吐き出してしまう。
黒いシルクハットに、真っ黒なフロックコートを纏った“黄泉の案内人”姿の旦那様。彼はまっすぐに私に向かって歩いてくると、私の脇に立ち、肩を抱くようにした。
「旦那様……殿下が――」
「じきに目覚める」
マーガレット様とオズワルド様がハッとしたように顔を上げる。
「あの娘は、“あの世”に帰った」
マーガレット様が、ジュリアン殿下の手を握り直す。
「……殿下」
オズワルド様も彼のそばに寄り、じっと殿下の顔を見つめる。
窓のカーテンの隙間からは朝の白い光がわずかに滑り込んできていた。
燭台の火が、揺れる。
殿下のまつげが震えた。
ゆっくりと瞳が開き、その琥珀の瞳が覗く。
眩しそうに眉を寄せた。
視線がマーガレット様を見つけると、ふわりと甘く笑む。
「……マーガレット」
掠れた声。
マーガレット様は両手で彼の手をギュッと握りしめた。
「……帰ってこれたよ」
「はい」
「僕、どれくらいこうしてた?」
「一晩……」
殿下の眉が歪む。
「一晩?」
彼は起き上がると、自分の腰や肩に触れた。
「……確かに寝込んでいた時のような体の痛みは無い。
……一晩だって?
僕、普通に寝ていただけじゃないか」
マーガレット様が苦く笑う。
「あんなに……僕は繰り返し見たのに……。
たった一晩の出来事だったのか……」
オズワルド様は、ほっとしたように息を吐いた。
「長い……長い夢だった」
私が旦那様を見ると、旦那様は目を優しげに細めて殿下を見ている。その視線に、私も頬を緩めた。
だけど、どうしてか、胸が締め付けられる。
「そうか……。そんなものだったのか……」
殿下の視線が下がり、左手首につけられたハンカチに目を留めた。
「……これは?」
「ブラックソーン夫人がくださったの。シルヴァミア領の伝統的な紋様のレース編みが縁に施されているのです。
私も、ほら――」
彼女が揃いのハンカチを開いてみせると、殿下の瞳が揺れる。
「波の紋様……。しかも、揃いで……。それで水の音が……」
殿下がまっすぐに私を見て、両手を差し出した。
私は、戸惑いながらその手に指先を添える。
殿下は素早く私の指先を引き寄せると、爪先に口づけた。
私が驚いて目を見開いても、彼の視線はまっすぐに私の瞳を射抜く。
「夫人。感謝を申し上げる。
あなたの助力がなければ……僕は連れて行かれていた。
王家より、あなたには褒賞を与えたい。
僕個人としても……感謝してもしきれない」
私の手を彼は額に当てた。
「ありがとう……」
震えた声。
「お役に立てたのなら……光栄です」
彼は顔を上げ、柔らかく笑んだ。
私の手を離すと、次に彼は、オズワルド様の方を見る。
彼は両腕を広げた。
「え」
オズワルド様は戸惑っている。
「恥ずかしがるな。来い。
僕のために泣いたんだろう?
感動の再会じゃないか。胸に飛び込んで来い」
「え……しかし……」
殿下はオズワルド様の腕を引っ張ると無理やり引き寄せて抱きしめた。
「男同士で抱き合う趣味はないのですが……」
「君は僕に解雇されたいのか?」
「まさかそんな……」
殿下が笑う。オズワルド様はふっと笑うと、泣きそうに眉を歪めた。
「うっ……」
「あ、本当に泣いてる!?」
ジュリアン殿下は彼の背をそっと撫でながら笑う。
「君が突然僕の前から消えてしまって、本当に不安だった。
帰ってこれて、良かった……」
オズワルド様がジュリアン殿下の背に腕を回して抱き返し、おいおい泣き出した。
「うわぁ……すごく強く抱きしめてくるじゃないか。そんなに寂しかったか」
「うるさいですよ。あなたが始めたんですからね」
殿下が声を立てて笑う。
オズワルド様も、泣きながら、つられるように笑っていた。
やがてオズワルド様が殿下から離れると、ジュリアン殿下の視線が、マーガレット様へ向き、それから、私へと滑ってきた。
思わず、私は口元を緩めた。
「殿下。それでは、私たちは下がらせていただきます」
軽く頭を下げると、殿下は少しほっとしたように息を吐き、頷いた。
「旦那様。帰りましょう」
「あ? ……あぁ」
不思議そうな旦那様の背を押し、扉へ向かう。オズワルド様も殿下に向かって頭を下げると、私たちと一緒に部屋を出た。
廊下の窓。
外はもう、随分と明るかった。
◇
マーガレットだけを残して全員が部屋を出ると、ジュリアンはベッドに身を起こしたまま、彼女に少しだけ体を向けた。
「……マーガレット」
彼が両腕を広げると、マーガレットはその胸に飛び込んだ。ジュリアンは彼女の背を抱き、マーガレットの髪に頬を当てる。
「……心配かけた」
「……はい」
「もう……僕は君のそばにいるから」
「はい」
「顔を見せて」
彼女が腕のなかで顔を上げた。
「また……泣かせてしまったね」
翡翠の瞳に、また涙が盛り上がる。
「あっ、泣いちゃう!」
マーガレットはつい吹き出した。
「もう……殿下ったら」
彼は愛おしげに彼女を見つめると、その顎に指先を添えた。
ゆっくりと顔を寄せ、短いキスを落とす。
「……ただいま」
「はい。おかえりなさいませ」
抱きしめる。
その温もりに、じんわりと心が満たされていくようだった。
◇
帰りの馬車の中で、私は旦那様の隣に腰を下ろしていた。私と一緒に王城に来ていたアゲハは「お邪魔したくありませんから」などと言って、もう一台の別の馬車に乗っている。
「その……大変でしたか?」
「いや。あの娘自体は、俺にはそんなに抵抗しなかったからな。
殿下は、大変だっただろうが……」
「そうですか……」
王都の並木道を駆ける馬車の窓。
木に光が遮られ、チラチラと私たちの頬を朝の柔らかい光が濡らしていく。
旦那様の白檀の香りが、ふっと立ちのぼった。
旦那様が私の肩に腕を回し、抱き寄せる。
「頑張ったな」
「私は……何も……」
声が、震えてしまう。
耐えられず、旦那様に抱きついた。
「……不安でした。でも、私はブラックソーン伯爵夫人ですもの。私が不安がっている姿を見せるわけにはいきません。だから……私も怖くて泣きたかったけど……堪えました……。旦那様が部屋に現れたとき、どれほどほっとしたことか……。来てくれて……本当に……本当に……」
我慢していたものが、溢れてしまう。
「さすが……我が妻だ。
わからないことばかりで、怖かっただろうに」
優しい声音。
思わず、嗚咽が漏れる。
私が旦那様を強く抱きしめると、応えるように旦那様も私を抱き返してくれた。
柔らかい光。
澄んだ香り。
旦那様の温もり。
「少し眠れ……。眠っていないのだろう?」
旦那様の胸の中で、目を閉じる。
温かくて、心地良くて、私はすぐにそのまま眠ってしまった。




