三十、供養
水の音をたどり、やがてジュリアンが駆け出す。
気づけば、空は青空だか夜空だか分からない曖昧な空に戻っていた。
浅い水。
裸足の夜着姿で駆ければ、水が跳ねる。
息を切らし、立ち止まった。
瞳を伏せて耳を澄ます。
ジュリアンは視線を下げた。
足が浸かっている水は浅くて澄んではいるが、不思議と底は見えない。
彼は腰をかがめ、腕を伸ばして水に触れた。
ほんのわずかな隙間。
筋のようにまっすぐと伸びるそこにだけ、小石が見える。
それを摘み、持ち上げた。
丸い、白い石。
激しい水の流れを経て、石同士がぶつかり、削られたその石は少しも角がない。
どうしてか、それを手のひらで握り込んだ。
筋をたどるように歩き出す。
長い夜着の裾は、水に浸かっている。
持ち上げて絞り、歩くのに邪魔にならない位置で結んでみた。
歩いても、歩いても、景色は変わらない。
だが、それでもジュリアンはその筋を辿った。
ふと思い出し、胸に手を当てる。
夜着のボタンをいくつか外し、金鎖を引き出した。
ペンダントを首から外すと、それを見つめる。
振ると、中の乳歯が揺れた。
「ごめんね。
でも、僕、帰らなくちゃ」
ペンダントを握りしめ、歯を食いしばった。
腕を振り上げて、それを投げる。
水面に波紋が広がった。
それから、ゆっくりと金が沈んでいく。
それに背を向け、また歩き出す。
「どうして、こんなひどいことをするの?」
少女の声に、ジュリアンは瞳を伏せた。
背後でチャリ――と、音がする。
「そうだ。いいこと思いついたわ」
ジュリアンが目を開けると、彼女は目の前に立っていた。クラリッサは腕を伸ばし、ボタンが開けられたままだった彼の胸元に触れる。
ひやりと、首元が冷える。
ジュリアンが視線を下げれば、金鎖がそこに戻っていた。
「ねぇ、私の体をあげる」
ジュリアンが眉を寄せる。
「ジュリアンだって、男だもの。興味あるでしょ?
私の肌、まだ誰にも触れさせたことはないの。
あげる。
そうしたら、ここにいてくれる?」
「僕を……みくびらないでくれないか」
「え……?」
彼は奥歯を噛み締め、クラリッサを見つめる。
その琥珀の瞳の奥は複雑に揺れていた。
「僕は、長い歴史を持つオルダーヴェイル王国の王太子。
幼い頃から“王太子”として育てられてきた。
正しくあれ。
気高くあれ。
優しくあれ。
時に、苛烈であれ。
そう、教わってきた」
クラリッサの水色の瞳に、彼が映り込む。
「誰もが言う。僕は“王太子”に相応しいと。
僕はそれを、誇りに思っている。
正しく、気高く、優しく。だけど、時には力をきちんと振るう。
そんな男だと周囲は思ってくれているということだ」
足元の水が流れていく音。
そこに混ざる、澄んだ水音。
なぜか、励まされるような気がする。
それでいいんだと、背を押してくれているような、そんな気がした。
「そんな僕は、伴侶にも、それを求める。
なんたって“国母”になるんだからね。
正しくて、気高くて、優しくて、苛烈な女性でなければ、相応しくない。
――マーガレットは相応しい女性なんだ」
「名前……思い出したの?」
クラリッサの声が、震えている。
「かつての君も、そんな女性だった。
気高かった」
ジュリアンの頬に涙が伝う。
「色仕掛けで、目的を果たそうなどと、考えたこともなかっただろう。
それに、僕が色で陥落させられるとでも?」
「素直になればいいのに。あなたいつも言えないじゃない。
“欲しい”って。
“悲しい”って。
“助けて”って。
王太子の癖にね。
望めばなんでも手に入る。助けを求めれば、いつだって誰かが駆けつけてくれるはずなのに」
「望めば何でも手に入るからこそ、言えないんじゃないか」
クラリッサが腕を振り上げる。
鈍い音。
強かに頬を打たれ、ジュリアンは頬に手を添えた。
「僕を殴りたいなら、殴ればいい。それで、君の気が済むなら」
クラリッサに肩を強く押され、ジュリアンは水の中に座り込む。彼女はそのまま彼の膝に乗ると、頬を両手で挟み、顔を寄せた。
「また……キスするの?
そして僕は、喪失を繰り返すのか」
「そうよ。永遠に私を失って悲しみ続けるの」
彼は、瞳を伏せる。
「マーガレットに……オズワルドに会いたい。せめて……一目でいいから。
ミサゴにも……。
もっと早く会いに行けば良かったな……」
呼吸が触れる。
「ミサゴ……
僕を……助けて……」
悲鳴。
ハッとしてジュリアンが顔を上げる。
黒衣の男がクラリッサを抱え、肩に担ごうとしているのが見えた。
「……ミサゴ?」
「すまない。遅くなった」
クラリッサが暴れ、ミサゴのシルクハットが水面に落ちる。ミサゴがかがんで拾おうとしたが、ジュリアンが先にそれを拾い、王太子は立ち上がった。
「ここを出る。ついて来い」
ミサゴが踵を返す。
クラリッサはその黒衣の背を叩き、「離せ!」と叫んでいた。
ミサゴは歩き出したが、ふと、足を止めて、小石の転がる筋を眺める。
「殿下。この石を拾っておけ」
ジュリアンはミサゴに駆け寄り、手のひらを開いてみせた。先ほど拾った丸い小石。ずっと握り締めていたものだ。
ミサゴの口角がわずかにあがる。
「……よく分かったな。それでいい」
「……この石は……なんなの?」
「レイク・ヴェスパーの水底の石だ」
「へ?」
ミサゴが歩き出す。ジュリアンは、クラリッサがいる方とは反対側につき、ミサゴと並んで歩いた。
空を見上げると、ジュリアンには夕焼け空のように赤く見えた。
しばらく歩くと、足元は水ではなく、草地に変わっていた。
その先に幅の広い川が見える。
川の先は霧に閉ざされていた。
「殿下も付き合え。彼女をあちらまで送る」
「……うん」
いつの間にか大人しくなっていたクラリッサは、ミサゴによって小舟に乗せられるとそのまま座り込んだ。
「隣に座ってやれ。供養だ」
ジュリアンは眉を寄せ、言われるままにクラリッサの隣に座った。
ずっとジュリアンが持っていたシルクハットをミサゴが受け取ると、彼はそれを頭に被り、櫂を動かし始める。
舟が岸を離れ、水の上を渡り始めた。
ジュリアンは空を見上げた。
やっぱり夕焼け空に見える。
「ミサゴ。あの空はなんなの?
青空にも夜空にも見えていたけど、今は夕焼け空に見える」
ミサゴも、ジュリアンの視線を追うように、空を見上げた。
「俺には星空に見える。
人によって見え方が違う。見たいように見える。
水も、覗いてみろ。
クラリッサも」
「私はいい。前も見たもの」
「今は殿下がいる。見えるものがきっと違う」
ジュリアンは俯いているクラリッサの顔を覗き込む。
「ね、見てみようよ」
柔らかな琥珀の瞳。
クラリッサは小さく頷くと、舟の縁に手を置き、一緒に水を覗き込んだ。
「出会った日の僕たちだ。小さいね……」
「三歳だもの。ジュリアンてば……可愛いわね」
「ほら、クラリッサにいじめられて泣いてるじゃないか、幼い僕。可哀想」
「違うでしょ。おもちゃの取り合いになっただけじゃない」
「今度はクラリッサが泣いてる。僕何かしたっけ?」
「嫌いなピーマンをちゃんと食べないと絶交って言われたのよ……」
「食べられるようになって良かったじゃないか」
「……おかげさまでね」
並んで座る二人。
互いの指先がそっと触れ、幼い頃のように手を繋いだ。
楽しかった思い出。
ただ、それだけを水は二人に見せていた。
ミサゴは黙って舟を漕いだ。
ギィ……ギィ……と、音が鳴る。
やがて舟は霧を抜け、川岸についた。
ミサゴが先に舟を降り、二人が降りるのを手伝った。
岸にいた澪はジュリアンを見て少しだけ驚いた顔をしたが、特に何か言うことはなかった。
クラリッサが森の先にある朱い門を見つめる。
そこから、二人ほど中の案内人が出てきた。
「あそこに、帰ればいいの?」
澪はクラリッサに向って小さく頭を下げた。
「左様でございます。
生者に害を及ぼそうとしたあなたには、罰が下るやもしれませんが――」
「わかってる。いいの。けじめだから」
クラリッサが振り返る。
「ジュリアン」
ジュリアンはクラリッサの前に立ち、頷いた。
「あなたに、もう一度会えて良かった。
たくさん酷いことをした。ごめん。
でも、そのくらい、私はあなたが好きで、あなたが欲しかった。その気持ちは本当なの……」
「……わかってるよ」
「ごめんね。大好きだった。あなたのこと」
「僕も……大切に思ってた」
クラリッサは一度俯き、そして顔を上げた。
にっこりと笑ってみせる。
「さようなら! ジュリアン!」
「さようなら……。クラリッサ」
彼女は踵を返し、駆け出す。
迎えに来た役人達と合流すると、門の向こうに姿が消えていった。
「……ご苦労さまです。ミサゴ殿」
「澪殿も」
澪の視線がジュリアンに向くが、やはり澪は何も言わない。
「今日はこれで終いですか?」
「はい。彼を連れて、戻ります」
「そうですか。ではまた、次の宵に」
ミサゴが踵を返して舟に乗り込むと、ジュリアンも舟に乗った。
小舟が動き出す。
ジュリアンは空を見上げた。
「満天の星空になった」
「きれいだろう」
「うん。きれいだ」
「でももう、ここには来ないように」
「僕だって来たくないさ」
ジュリアンが笑う。
チャプ……と、水の音が小さく鳴った。
ジュリアンとミサゴは静かに夜空を見上げていた。




