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二十九、終わらない喪失


 ジュリアンは見上げた。


「え……な、何してるの?」

「木登り!」


 王城庭園。ブナの木の枝に、クラリッサは満足そうに座っていた。


「危ないよ。降りてきなよ。本当に君はお転婆なんだから」

「ジュリアンが登ってきたらいいじゃない。

 あ……もしかして登れないの?」

「……僕を挑発してるんだね?

 いいよ。登ってやろう」


 ジュリアンがその場でブーツを脱ぎ始め、オズワルドが「殿下!」と声をかけるが、無視して彼は木を登り始めた。なんなくクラリッサのいる枝にたどり着くと隣に腰掛ける。


「ほら、出来た」

「ジュリアンは運動神経も悪くないんだから、できるって思ってた。

 ――ねぇ、見て」


 クラリッサが顔を寄せ、遠くを指さした。

 その先にあるのは王都の街並み。

 尖塔がいくつも建ち、その先から灰の煙が吐き出されている。


「私たちが将来治める街」

「うん」


 枝の上で、手を繋いだ。


「きれいね」

「うん。きれいだ」


 ジュリアンはクラリッサの横顔を見た。少女は、真っ直ぐに街を見つめている。


「クラリッサはさ……物心ついたときにはもう、僕の婚約者だった。王太子妃、その先は王妃。すごく大変だと思う。

 ――嫌じゃない?」

「楽しみにしてる。ジュリアンこそ――」


 クラリッサがこちらを向き、目が合う。


「私、“淑女”って柄じゃないでしょ?

 嫌じゃない?」

「嫌じゃないよ」

「今は……友達みたいにしていられるから楽しいけど、男と女になった時に、もっとおしとやかな子がいいって思うかも」

「そんなこと……」

「そうしたら、婚約解消しても、いいよ」


 ジュリアンの眉が歪む。


「クラリッサは……それでいいの?」

「嫌だよ。ジュリアンのこと、大好きだもん。

 でも、大好きだから、無理してそばにいて欲しくない。

 笑ってるジュリアンが好き」

「僕も……クラリッサのこと……」

「降りよう!」

「え?」

「お腹空いちゃった!」

「えぇ!? 今……その……」

「早く降りて。ジュリアンが降りないと私も降りれない」

「はいはい……」

 

 二人は連れ立って木を降りると、ティータイムの準備をしていた使用人たちに駆け寄る。

 美味しそうなお菓子を見て、二人で笑った。



 

 

 ステンドグラスをジュリアンは見上げた。

 色の混ざった鈍い光が、蓋の開けられたままの棺に差し込んでいる。

 石造りの教会には、彼のため息がよく響いた。

 

 棺の中の少女。

 彼女の白い指先に絡めるようにしてある、金の鎖。


 ジュリアンは手を伸ばして、それに触れた。

 チャリ――と、小さく音が鳴る。


 一滴だけ。

 涙が落ちた。


 背後で軋む音が鳴る。

 扉から入ってきたオズワルドがうつむきがちに、ジュリアンをちらと見た。


「殿下……そろそろ……」

「うん……」


 金鎖を元に戻し、ジュリアンは棺に背を向けた。

 静かに眠るクラリッサ。


 ジュリアンは振り切るように、足早にそこを離れた。

 




 ジュリアンが気づくと、また、幼いクラリッサが笑っている。

 そうして楽しい時間を過ごしたかと思えば、また次の瞬間には、彼はクラリッサを失っている。


 境界に閉じ込められたジュリアンは、出会いと喪失を繰り返させられていた。


 彼は、亡くなってしまったクラリッサのベッドの脇で、泣いている。


 彼は、棺の前に立っている。


 お墓の前に立ち尽くす時もあれば、ティーテーブルの向かいの空席を見つめる時や、ベッドに横たわり、乳歯のペンダントを眺めている時もある。



 喪失を幾度も、幾度も、繰り返す。



 彼が呆然としていると、下ろしていた手に温かい物が触れる。

 見ればクラリッサが隣に立ち、手を繋いでいた。


「喪うのはつらいでしょ。

 一緒にいよう。

 そうすればもう、何も怖くない」


 ジュリアンの頬を涙が伝う。


「僕には……大切なものが……」

「私でしょ」

「君も大切だけど……あれ?」

「ここにいたら、忘れられる。

 全部忘れて、一緒にいようよ」

「翡翠色の……すごくきれいな……あれは……何だっけ?」

「そんなもの、はじめから無かった」

「違う。あった。すごく大切な……。

 穏やかで、だけど……」

「そう。まだ足りないのね」


 ジュリアンは、一人、棺の前にいた。


 悲鳴を上げそうになったが、体は静かに棺を見下ろしているだけだ。

 繋がれていた手は、空になっている。


 涙が落ちた。


 ポタリと、小さな音を立てて、床に落ちた。


「もう……いやだ……」


 黒い喪服の胸を掻きむしる。


「いやだ……。僕を帰して……。

 もう、これ以上失いたくない……」


 彼はその場に蹲る。


「クラリッサ……僕を許して……」


 その時――水の滴る音。


 ジュリアンは顔を上げた。


 境界に閉じ込められてから、聞いたことのない音だった。

 ふらつきながら立ち上がり、音を探す。


 また、ポチャン……と音が聞こえてくる。

 澄んだ水の音。

 王城の小川とも、境界の浅い水とも、どこかが違う。

 

 彼は、歩き出した。



 ◇



 ミサゴは岸に舟をつけ、死者を澪に預けた。


「ご苦労さまです。ミサゴ殿」

「いえ。澪殿こそ」


 澪が視線を上げ、空を見た。

 彼女にはそれは澄んだ青空に見えていた。


「王都の境界が揺らいでいますね」

「はい。最近……出入りしている者がいるようで」

「へぇ。それは面倒ですね。

 でもまぁ……じきに落ち着くことでしょう。いつもそうですから」

「まぁ……そうですね」


 二人は頭を下げ合い、ミサゴは小舟に戻った。櫂を手に取り、ゆっくりと漕ぎ出す。


 ギィ……ギィ……と小さく音が鳴った。


 彼も空を見上げる。シルクハットに手を添え、満天の星空を眺めた。


 一筋、星が走る。


 彼は、わずかに眉を寄せた。




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