二十八、長い夜
私が王城に着くと、ほとんど何も聞かれることもなくジュリアン殿下の部屋に通された。
中にいたのは、マーガレット様とオズワルド様。マーガレット様はベッド脇においた椅子に座り、殿下の手を握っていた。オズワルド様は壁際に控えていたが、私が来るとマーガレット様の隣に椅子を置き、「よくいらしてくださいました。どうぞ」と静かに声をかけてくれた。
「いえ……」
マーガレット様が静かにこちらへ顔を向ける。その目はあまりにも真っ赤で、つい胸が締め付けられてしまう。
「ご様態は……」
「脈も、呼吸も、異常はないそうです。
ただ、眠りから覚められないと……」
「そうですか……。主人は……その……」
「お忙しいのですよね……。なんとなく……分かります」
以前お会いした時とは、まるで別人のように沈んでしまった声。
マーガレット様の視線が、殿下の顔へ向く。燭台の明かりが、ゆらゆらとその横顔をなぞるように照らしていた。
誰かのため息が、落ちる。
私が視線を下げると、マーガレット様の手の中できつく握りしめられているハンカチに気づいた。
「……持っていてくださっていたんですね」
「え?」
マーガレット様が私の視線を追い、ハンカチにいく。ハッとして、ハンカチを広げてそのシワを伸ばした。
「いやだ……くしゃくしゃにしてしまったわ……」
「使ってくださって嬉しいです」
ハンカチの縁。レース編みを施したそこに、マーガレット様の華奢な指が触れる。
「この紋……可愛くて気に入っているのです。私も……こういったものが作れればいいのに……」
私が微笑むと、マーガレット様も淡く微笑んだ。
私は立ち上がり、彼女の向こうへ回り込んだ。
「殿下に触れても?」
「え? はい」
ハンカチを取り出す。アオサギたちに言われて持ってきた三重の波が施された白いハンカチ。それを広げ、マーガレット様が握っていた殿下の手首に巻き付けて結んだ。
三重の波が見えるように。
そっと、それに触れる。
「マーガレット様に贈ったものと、お揃いなんです。
きっと、お二人の絆の証になってくれます」
「夫人……」
「私のことは、ベアトリスと。気軽に呼んでください」
席に戻り、そっとマーガレット様の肩を抱いた。
「大丈夫。戻られます。
だって、私の旦那様はとてもすごい方なのですから」
マーガレット様が唇を噛む。
「お二人で、我がブラックソーン伯邸に遊びにいらしてくださいね。今度はどんな柄のレース編みのハンカチを贈ろうかしら。今から、楽しみです」
彼女の頬を、涙が伝った。
マーガレット様は顔を手で覆う。
「……はい。必ず……
必ず殿下と……お伺いいたします」
「えぇ。お待ちしてます」
橙の明かりが、そっと慰めるように、小さく揺れた。
◇
ジュリアンは下草の上を歩いていた。
見上げれば、空は抜けるほどに青い。
「ジュリアン!」
呼びかけられ、そちらに顔を向ける。
王城の池。
スカートの裾を縛り、裸足でその中に入っている少女がいる。
「見てー! オタマジャクシがいたの!」
「えぇ……?」
ジュリアンは駆け寄る。歩幅がいつもより狭い気がするが、体は軽かった。
少女――クラリッサは手をお椀の形にしたまま、持ち上げてみせる。水が滴り、ドレスが濡れる。彼女の背後にいた侍女はもう慣れているのか、ドレスが汚れても何も言おうとはしなかった。
「君……お転婆すぎるよ」
「ほら!」
両手を差し出され、ジュリアンはそれを覗き込んだ。黒いオタマジャクシが、彼女の手の中で尾を振っている。
「本当だ! オタマジャクシだ!
え……僕も欲しいな……」
ジュリアンが池に視線をやる。
「ねぇ、ジュリアン。歯、グラグラしてるの?
今舌で弄ってたでしょ」
ジュリアンは顔を上げ、口を少しだけ開けると、舌で歯を押して見せた。
「もう少しで抜けそうなんだ」
クラリッサは池にオタマジャクシを逃がすと、彼女も同じように舌で歯を押してみせる。
「私もなの。鬱陶しいし、引っ張って抜こうよ」
「え……大丈夫なの? それ」
二人で池の端の石の上に向かい合って座った。クラリッサが大きく口を開けると、ジュリアンは恐る恐るぐらついている歯に触れる。
「え……抜けないよ?」
「もっほふおふ(もっと強く)」
「糸とか用意した方が良いんじゃないの?」
「ひへうひへう(いけるいける)」
「良し……せーの!」
勢い余ってジュリアンが、背に倒れそうになる。その手の中には、小さな乳歯。
「抜けた!」
「……血の味がする」
ジュリアンは歯についていた血を池の水で洗うと、手のひらに乗せてみせる。
「ふぅん。こんな感じなんだね」
「クラリッサ……。感動がないね」
「次は私が抜く番ね。口を開けて」
ジュリアンは言われるままに口を開ける。クラリッサは躊躇なく口に指を入れた。
「……本当だ。こんなにグラグラしてるのに、意外と抜けない」
「ほうえほ?(そうでしょ?)」
「せいっ!」
「痛っ!!」
クラリッサが指で摘んでいる歯を見て目を輝かせる。
「抜けた!! ほら、見て――
わぁ!!」
少女はジュリアンを見て悲鳴をあげた。
クラリッサの時より強引に抜かれたため、歯茎から血が溢れ、それは彼の服を濡らしている。そばにいた侍女たちが慌てた。彼の口元に布巾を当てたり、濡れた布で彼の服を拭ったりと急に大騒ぎになった。
「ご、ごめん! ジュリアン!!」
「……口の中が鉄臭い」
「だろうね!」
ジュリアンが声を立てて笑う。
クラリッサも、思わずつられて笑ってしまった。
「ねぇ、ジュリアン。お互いにお互いの歯を持とうよ。お守りにするの」
「いいよ。そうしよう」
二人で、顔を寄せ合って笑う。
この後、二人はそろって互いの両親から叱られるが、王家から金の透かし彫りの特注ペンダントが二人に贈られることとなった。
それに歯を入れ、ジュリアンとクラリッサはいつも肌身離さず身につけるようになる。
ジュリアンはクラリッサと手を繋いで、庭園を歩いていた。ガゼボにたどり着くと、そこに置かれていたベンチに並んで腰掛ける。
赤い夕陽。
見渡す限り広がる庭園の全てを、それは赤に濡らしていた。
「ねぇ、持ってる?」
クラリッサがドレスの胸元から金鎖を引っ張り出してみせる。ジュリアンは胸に手を当てた。
「持っているよ」
クラリッサがにっこりと笑う。幼い時より、少しだけ艶を帯びるようになった笑み。
「ねぇ……ジュリアンて閨教育ってもう受けてるの?」
途端にジュリアンの頬が赤く染まる。
「まだ……でも……その……話だけは聞いてる」
「ふぅん。王族だものね。男性はしっかりと受けるって聞いた」
ジュリアンの眉が寄った。
「誰がそんな話を君にするの」
「お友達。耳年増ってのがいるのよ」
「みみどしま……」
クラリッサがジュリアンに体を寄せる。
「……興味ある?」
「……え?」
「私は興味ある。私、もう体は女性なの。子どもが産める。この国の法律で結婚はまだできないけどね」
ジュリアンは頬が赤いまま、彼女から顔をそらした。
「ジュリアン。キスして」
「えぇ!?
もっとこう……ムードのある時にしようよ。初めてなんだよ?」
「ムードはあるでしょ。ほら、見て」
ゆったりと風が吹く。
葉擦れの音。
整えられた芝の上を風が渡り、波のように揺れていた。
橙に濡れる、草木。
その向こうに夕焼け色に染まる王城が見える。
従者たちは遠くに離れ、ここにいるのはほとんど二人だけ。
ジュリアンがクラリッサを見ると、その水色の瞳には、自分と夕陽が映り込んでいる。
吸い込まれるように、ジュリアンはそれを見つめた。
「キスして」
顔を寄せる。
顔が近づくと、互いの熱が頬に触れた。
クラリッサの長いまつげが伏せられる。
呼吸が触れ、そっと、唇を重ねた。
ジュリアンがゆっくりと顔を離す。
瞳を開けたクラリッサと、視線が絡まった。
そして、お互いにふっと笑う。
「ドキドキした!」
「……僕も」
「キスしちゃった! 嬉しい!」
笑っているクラリッサの横顔を、ジュリアンは盗み見するかのようにして見た。彼は口を手で覆う。
「恥ずかしい……」
クラリッサは頬を染めながら、楽しそうに笑っていた。
ジュリアンは、一人、椅子に座っていた。
彼の前にあるベッドには、顔に白い布の掛けられた少女。
もう、その胸は動いてはいない。
もう、彼に向かって笑ってくれることもない。
ジュリアンは声を殺して泣いた。
彼自身が人を遠ざけてしまったから、その震える背を擦ってくれる者は誰もいなかった。
ジュリアンは心配したオズワルドが迎えに来るまで、一人でそうして泣いていた。
それは、長い――長い夜だった。




