二十七、こちらで待つ者たち
少し時は遡る――
その時、ジュリアンとオズワルドは向かい合ってチェスをしていた。
軽口を言い合いながら、笑い合う。
オズワルドは盤面を見るために、視線を下げた。
駒を持ち上げ――だが、違和感を覚えて顔を上げた。
「……殿下?」
目の前に座っていたはずの、ジュリアンがいない。
空の座面。
まるで、はじめから誰も座っていなかったかのように。
肌が粟立つ。
オズワルドは持っていた駒をテーブルに落とし、立ち上がってあたりを見回す。
静かな部屋。
暖炉の火が時々小さく爆ぜるような、そんな音しかしない。
衣擦れの音さえ、しなかった。
「殿下……。ジュリアン殿下!」
ベッドの天蓋は開いている。
この部屋に置かれている書架は小さい。
隠れられるほどの大きな家具なんて、ほとんどない。
「殿下!」
オズワルドは駆け出した。
足にチェスの盤が引っかかり、床に音を立てて落ちる。
扉を開け、廊下に向かって声を上げた。
「誰か! 殿下が……ジュリアン殿下がいなくなった!!」
夜勤の使用人と騎士たちが駆け寄ってくる。
「殿下を探してくれ!
あの世の住人に連れて行かれてしまったかもしれない!
まずは、王城敷地内をとにかく探すんだ!!」
返事をした騎士たちが駆け出した。
「そ……それから……もしものためにマーガレット様に……
アッシュフォード家にも使いを出してくれ!」
使用人が頷く。
「それと――ブラックソーン伯爵に連絡を!
至急来ていただくようにと」
胸を掻きむしりたいほどの焦燥。
呼吸が震える。
「……殿下」
オズワルドは駆け出した。
どこを探せば良いかなんて、分からなかった。
それでも、彼は駆け出した。
ブラックソーン伯爵邸。
締め切られていた鉄門が音を立てて開けられ、銀のサッシュを肩から掛けている男が乗った馬が邸宅玄関へ続く石畳を駆けた。
アオサギとシラトリが慌てて外へ出て王城の使者を迎え、使者は馬を飛び降りるようにして二人に駆け寄る。彼らの目の前で息を切らしたまま、姿勢を正した。
その顔は真っ青だった。
玄関横のランプの明かりが、彼らの横顔を舐めるように揺れる。
「夜分に恐れ入ります!
ミサゴ・ブラックソーン伯爵様に、至急王城へ来ていただきたいのです!」
アオサギとシラトリも顔色を失って、目を見合わせた。
「……旦那様は今、案内人の仕事のため、出ており――」
「いらっしゃらない……!?」
使者の悲鳴のような声が上がった。
「……何かあったのですか」
使者の男は呼吸を整え、アオサギとシラトリを順に見る。
「王太子殿下が……いなくなってしまったのです。
従者のオズワルド様が“あの世の住人に連れ去られた可能性がある”と、仰られていて……」
アオサギとシラトリは、また視線を合わせる。
アオサギは息を呑み、使者を見た。
「旦那様なら……きっと何とかしてくださる。
戻り次第、当主に伝えます」
使者の男は頭を下げた。
「お願い申し上げます!」
馬に飛び乗り、駆け去っていく。
その背を二人は見送った。
シラトリがアオサギに寄る。
「アオサギ……」
「旦那様なら……異変に気づいて早めに戻ってくださるかもしれない……」
「そうね……。
それを……祈るしかないわね」
二人が玄関の中へと戻ると、ナイトドレスにガウンを羽織った姿のベアトリスが、階段を降りてくるところだった。
「奥様!」
「……何かあったの?」
ベアトリスの後ろにいるアゲハは困ったように眉を下げている。
玄関ホールの壁に据えられた燭台にはほとんど火が灯されていない。ベアトリスが手に持っているオイルランプの明かりだけが、その手元をぼんやりと照らしていた。
ベアトリスは静かにアオサギとシラトリの顔を眺める。
「そう。何かあったのね。
殿下の……クラリッサ様絡みかしら……。
ここへ……使者がくるということは」
アオサギが諦めたように、小さく頷いた。
「私にできることはある?」
アオサギが瞳を伏せて首を振るが、シラトリがハッとしたようにアオサギの肘に触れた。
「アオサギ……あの紋……」
「紋?」
「ほら……旦那様が仰っていた」
「あ……なるほど……。使えるかもしれませんね」
二人が顔を上げる。
「奥様、マーガレット様に差し上げていたものと同じものをジュリアン殿下にも用意されていると……アゲハから伺っております」
アオサギの白髪と、シラトリの白金の髪が、ランプの明かりを滑らせている。
「レース編みを施したハンカチのこと?」
「紋様も同じものですか?」
「え? ……えぇ、三重の波よ」
「では、それをお持ちになって、先に登城されるのです。
我々は旦那様が戻り次第、事情を説明し、王城へ向かってもらいます」
「あのハンカチが……役に立つの? どうやって使うの?」
アオサギが首を振る。
「申し訳ありませんが……我々にははっきりとは分からないのです。この世の掟とは異なるので。
……ですが、ブラックソーン伯爵夫人が緊急時に登城するということも、政治的な価値があります」
「そう。旦那様の為になるのなら、向かいます。
――アゲハ」
「は……はい!」
「支度を」
「はい!」
ベアトリスが踵を返し、階段を駆け上がっていく。
アオサギとシラトリは息をつめて、その背を見ていた。
「旦那様……早く……お戻りになって……」
シラトリの声。
それは闇に溶けていった。
「殿下!」
マーガレットがジュリアンの寝室に駆け込むと、ベッド脇に置かれた椅子に座っていたオズワルドが顔を上げた。
部屋は人払いがされ、この部屋にいるのは、オズワルドとマーガレット、それから――ベッドに横たわるジュリアンだけ。
王城内の捜索が始まって間もなく、ジュリアンは庭園の池で発見された。そうして彼は今、ここで寝かされている。
ベッドサイドの燭台と、暖炉の火だけの明かりの部屋。
オズワルドが着ていた黒の三つ揃えは、泥に汚れていた。いつも丁寧に撫でつけられていた髪も乱れたまま。
「……オズワルド」
「マーガレット様、今、椅子を……」
「いいわ。自分でやれます。椅子をお借りします」
オズワルドは一度立ちあがるが、力なく、また椅子に座り直した。マーガレットがオズワルドの向かいに椅子を置き、そこに身を下ろす。
ベッドで横たわるジュリアンは、しずかに寝息を立てていた。
その夜着の胸元は、規則正しく上下している。
「何があったのです」
「申し訳ありません……」
「オズワルド。“あの世”の件です。誰もあなたを責められる者などいませんよ」
オズワルドが俯いた。膝の上で強く握られた拳が、ひどく震えている。
「チェスをしていました……。夜、一人になるとクラリッサ様が来てしまうから、一緒にいてくれと言われ……夜通し起きて過ごし、朝になったらミサゴ様のところへ伺うつもりでした。
一緒にいたんです。
なのに……忽然と、消えてしまわれた。
それで……。
とにかく、王城内を探しました。
ここには、かつての案内人が施した結界が弱いながらも張られていると……聞いたことがあったので……外に殿下の体ごと連れて行かれることはないのではないかと……」
「そう。それで殿下をすぐに見つけられたのね。賢明な判断だったわ。
殿下は……どこにいらしたの?」
オズワルドが息を吐き出す。
「池に……。仰向けになって……」
「それで……あなたは濡れてるのね」
「医師には、殿下は眠っていらっしゃるようだと。脈も呼吸も乱れはなく、傷一つさえないのです。
でも――目覚められない。
日頃、さほど眠りが深い方ではないのです。でも、いくらお声がけしても、目覚めない」
嗚咽が漏れる。
オズワルドは手の甲で涙を拭った。
「……目覚められないのです」
眠るジュリアンの顔は、穏やかだった。
「オズワルド……。私がここにいるから、あなたは着替えてらっしゃい。殿下が目覚められた時、あなたが寝込んでいては仕方ないもの。
ね?」
「……はい」
オズワルドが立ち上がり、部屋を出ていく。
扉が閉まる音。
それから、衣擦れの音。
マーガレットは腕を伸ばし、ジュリアンの手を取った。その指先に口づける。
「殿下……戻ってらして……」
もう片方の手で、彼の頬に触れた。
「いつも飄々としてらっしゃるのに、寝顔はあどけないのね。お可愛らしいわ……」
彼女の頬を、涙が伝う。
「置いていかないで……。
マーガレットは、殿下のおそばにおります……。
殿下……」
マーガレットはポケットから、ハンカチを取り出した。涙を拭う。
どこかで、水が滴る音。
だが、マーガレットは自分の嗚咽で気づかなかった。
彼女の手の中には、ベアトリスが贈ったハンカチ。
その三重の波が――静かに揺れる。




