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二十六、境界の水面


「ねぇ、オズ」


 ジュリアンの寝室。

 ジュリアンとオズワルドの二人はソファに座ってローテーブルに向き合い、チェスをしていた。


「はい」

「今夜は下がらずに、ずっとここにいてくれない?」

「え……」


 オズワルドは自分の体を抱く。それを見てジュリアンは声を立てて笑った。


「そんなことするわけないじゃないか! 僕にはマーガレットがいるのに」

「……冗談ですよ」

「冗談じゃなかったら僕は君を解雇して別の侍従を探すところだよ。まったく」


 ジュリアンはひとしきり笑うと、「あーぁ」と言って息を吐く。


「構いませんが、どうしたのですか?」

「前、僕、君に嘘ついた」

「よくあることなので気にしていませんよ」

「あっはっは。そうかそうか」

 

 ジュリアンが笑いながらチェスの駒を動かした。


「クラリッサは……ここのところ頻繁に僕の部屋に来るんだ。

 君が下がった後にね。僕が一人になるのを待っているのかな……」


 オズワルドの顔から、さっと血の気が引く。


「僕、明日こそミサゴのところに行くよ。

 心配かけて、ごめんね。オズ。

 だから今夜は、彼女に会わずに夜を越えたい。徹夜でチェスでも付き合ってよ」

「ある程度やったら、ポーカーにしましょうよ」

「あ、いいね。そうしよう」


 今度はオズワルドが駒を動かした。


「昼間に、マーガレット様に説得されたのですか?」

「うーん……まぁ、そうかな」

「やっぱり殿下も男なんですねぇ。

 僕よりも女性の一言のほうが大きいんですね……」

「その言い方はどうかと思うよ。まるで僕が軟派みたいじゃないか」


 オズワルドがジュリアンをじっと見つめる。


「え……ぼ、僕、軟派?」


 オズワルドがふっと笑うと、ジュリアンは「ひどいな」と言って声を上げて笑った。


 暖炉の火。

 その橙の明かりが彼らの横顔を照らしていた。揃って笑いながら、二人はチェスを続けた。


 だが――


 ふとジュリアンは顔を上げた。


「え……」


 頭上には、空。

 夜空のような、青空のような曖昧な空が、果てもなく続いている。

 

 水の音。

 

 驚いて足を上げると、くるぶしほどの深さの水の中に、自分が立っていることがわかる。

 澄んだ水は、どこかへと流れていくようだ。


「ここ、どこ?」


 見渡す限りの浅い水と、空。

 それしかないこの場所は、明るくも暗くもなかった。


「オズ……」


 ジュリアンは振り返る。


 だが、どこを向いても澄んだ水と曖昧な空しかない。


「オズ! どこにいるの!」


 彼は、駆け出した。


 革のスリッパを脱ぎ捨てる。

 水が跳ね、夜着の裾を濡らした。


 息が上がる。

 

 自分の呼吸と水の音だけが、どこまでも響いている。


 駆けても、駆けても、景色は変わらない。


 やがて、ジュリアンは足を止めた。

 汗が額から流れていく。


「ここは……あの世?」


 彼は胸元に触れた。

 外せなくなってしまったペンダント。

 それを引き出すと、金の透かし彫りに触れ、手のひらで握り込む。


「クラリッサ……君なの?」


 途端に、背後から抱きつかれる。

 ジュリアンは目を見開いた。


「……やっと、呼んでくれた」


 彼は、急いで彼女から離れる。


 水の流れる音。


「クラリッサ……ここは?」

「境界」


 彼女は華やかな赤髪を揺らして、笑った。

 あどけない少女の笑みで。

 

「クラリッサ。僕は帰りたい。ここから出る方法を教えて」

「どうして帰るの? ジュリアンはこれから“行く”のよ」

「……行かないよ」


 クラリッサが彼に近づくと、ジュリアンは一歩下がった。


「どうして帰りたがるの?」

「クラリッサ……君はきちんとあの世に戻って、輪廻転生して、新しい人生を生きるんだ。そこで、新しい人々に出会い、幸せになるんだよ」

「ならないわ。だって、ジュリアンはまだ生者だから。生まれ変わった先にあなたは居ないもの」


 クラリッサは彼に手を伸ばした。

 だが、ジュリアンは首を振って、その手から距離を取ろうとする。


「ジュリアンは私と結婚して、私と家族になるって決まってたじゃない。

 それをやるの」

「君はもう……」

「ジュリアンは私のこと、もう大切じゃないの?」

「大切だよ。大切だからこそ――」

「じゃあ、キスしよう」


 ジュリアンは眉を寄せた。


「クラリッサは、どうしてそんなに僕とキスをしたいの?

 もしかして――」

「好きな人とキスをしたいと思うのは、変なこと?

 あなただってしてたじゃない。

 私じゃない人と」


 ジュリアンの呼吸が止まる。


「どうしてキスしたの?」

「彼女のことが……好きだから」

「私以外の人を好きになったの?

 なぜ? ジュリアンは私の婚約者なのに?」

「君が死んでしまったから……君は僕の婚約者ではなくなったんだよ……」


 クラリッサの水色の瞳は、変わらず楽しげに細められていた。


「ジュリアンがこっちに来ればいいじゃない」

「え……」

「そうしたら、ずっと一緒にいられる。

 だから、キスしようよ」

「やっぱり、君とキスをしたら、僕は連れて行かれるんだね……?」

「そうよ。ずっと一緒。きっと楽しい」


 ジュリアンは夜着の胸元を強く握りしめる。


「君と僕では……もう、居る場所が変わってしまったんだ。

 僕は君に幸せになってほしいと思ってる。過去に引きずられず、新しい生を……」


 クラリッサは首を傾げた。


「君は……僕の幸せは願ってくれないの?」

「私といれば、ジュリアンは幸せでしょ?」


 思わず、ジュリアンの頬を涙が伝った。


「違う……違うよ。

 クラリッサは、そんな子じゃなかった……。

 お転婆だけど、賢くて、周りをよく見てるような子だった。

 そんなこと、クラリッサが言うわけないじゃないか!」

「私のこと、嫌いになったの?」

「違う! そうじゃないんだって」


 水が跳ねる。

 クラリッサは水を蹴り、ジュリアンに抱きついた。

 水に足を取られ、彼が倒れ込む。


 クラリッサがジュリアンに馬乗りになり、愛しげに彼を見下ろした。


「キスしよう。

 そうしたら、私もジュリアンも幸せになれる」


 水が耳元を流れていく。

 澄んだ音。

 王子を見つめる水色の瞳も、とても澄んでいた。


「……そうか。僕の執着が君を歪めてしまったんだね……」


 ジュリアンは起き上がろうとしたが、クラリッサに肩を強く押される。

 浅い水に体が沈む。


「クラリッサ……やめて……」


 声が、震える。


「あの人にしたみたいに、私にもキスをして」

「僕は君とはキスをしない」


 再び起き上がろうとするも、両手首を掴まれ、少女とは思えぬほどの力で押された。水底に、体が縫い留められる。


「クラリッサ。こんなことやめて。

 ――やめるんだ」

「一緒になったら、何をしようか。

 大人みたいに、体を重ねる?

 それとも、子どもみたいに、木登りでもする?」


 クラリッサが笑う。

 水色の瞳を細めて。あの頃と変わらぬ笑みで。


「嫌だ……。やめて。僕は……」


 浅かった水の水位が上がる。


 空気が奪われ、呼吸ができなくなる。

 水の向こうのクラリッサは、ジュリアンがどれほど顔を歪めようと、ずっとそれを見つめていた。


 愛おしげに。

 どこか、恍惚として。


 そして、彼女は彼に顔を寄せた。

 

 空気の泡が空へ、遠ざかっていく。


 クラリッサは、彼の手首を押さえていた手を離し、ジュリアンの顔を固定するようにきつく頭を押さえつけた。


 そして、強引に、唇を重ねた。


 曖昧な空に、一瞬だけ、星が流れた。

 


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