二十五、隣に立つ人
柔らかい光が窓から差し込んでいる。
暖炉にはすでに火が入っていた。
王城が抱えるサロンの一つであるこの部屋には、深い灰色のベルベット地に銀の刺繍が施された布が張られたソファが並ぶ。
ジュリアンとマーガレットは、それに隣り合うように座っていた。
このサロンには書架も並んでいる。
社交のための部屋というより、趣味を語り合うために作られたような部屋。
静かだが堅苦しくなく、肩を寄せて語り合うのに相応しい場所だった。
「殿下」
ジュリアンがカップを口につけながら、マーガレットの方を向く。ゆっくりとテーブルにカップを置くと、体を少しだけ彼女に向けた。
「何? あ、刺繍入りハンカチの新作?」
思わずマーガレットは頬を緩め、口元を手で覆って笑う。
「ふふ。残念ながら今日は間に合いませんでした」
「じゃ、次の機会に貰えるのかな。楽しみ」
ジュリアンが柔らかく笑った。だが、彼の目元には色濃い隈。マーガレットはそっと指先を伸ばした。
「殿下。無理をされては……なりませんよ」
ジュリアンは彼女の手に自分の手を添えると、少しだけ不敵に笑む。
「無理なんかしてないよ。いつも仕事から逃げ回ってばかりだよ」
マーガレットの翡翠の瞳が、少しだけ沈む。ジュリアンはハッとしたようにそれを見つめた。
「……マーガレット?」
「殿下。私は殿下が話したがらないことに、踏み込もうとは思っていませんでした。
――でも、あなたは“王太子”なのです」
ジュリアンはマーガレットに体を向けるように座り直す。
「みなが、あなたを心配していますよ。
私では、殿下のお力になれませんか?」
「君は、僕の支えになっているよ」
マーガレットが首を振った。
「私は、殿下のお心を癒すだけの女にはなりたくありません」
ジュリアンは眉を寄せる。
「あなたの隣に立ち、国母として国の頂点にありたいのです。
時に悩みを打ち明け合い、解決策を共に探し、共に泣いたり、共に笑い合えるような……。
私はそんな伴侶になりたい。
ただ隣に座っているだけの、つまらない女に私をさせないでください」
「マーガレット……」
「私では、力不足ですか?」
彼女の翡翠の瞳。
芯のある生きた色。
マーガレットは手を伸ばし、ジュリアンの髪をそっと撫でた。
「殿下……。あの赤い髪の可愛らしいお嬢様は、クラリッサ様ですよね?
私も、かつてお会いしたことがあります」
ジュリアンの視線が下がる。
「……そうだよ」
「まだ、殿下の御心は彼女にあるのですか?」
彼は小さく首を振った。
「……クラリッサと僕はね、一緒に育ったようなものなんだ。物心ついたときにはもう、婚約者として定められていた。
だから、今だって、すごく大切な人だよ。
――だけどね」
視線を上げる。
琥珀の瞳は真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
「マーガレットに抱いてる気持ちとは違うんだ。
だから、あれは恋ではなかったのかもしれないと思ってる。
……いや、どうかな。あれはあれで、幼い日の恋だったのかもね」
マーガレットの眉が寄り、じわじわとその頬が染まる。
「君への気持ちは、恋だよ。
婚約者教育の進捗の報告を僕は受けているけど、君は本当に優秀だね。母上も君を気に入ってる。僕の伴侶にはもったいないくらい、君は素晴らしい人だ。
でも、だからといって、もっといい男を君に紹介しようだなんて、絶対思わない」
ジュリアンは、そっとマーガレットの頬に手を添えた。
「君を手放したくない。僕は君に恋をしている。クラリッサは確かに大切な人だけど、君とは違うと、はっきりわかるんだ」
王太子はふっと笑う。
「ヴィオラ達が、君に泣きついたのかな。
彼女たちが僕のペンダントを見たがっていたのは気づいていたけど、躱してしまったから、君を頼ったんでしょう?」
短い呼吸が落ちる。
痛みをこらえるように、彼は目を細めた。
「だからもう……マーガレットは知っているんだよね?
僕は嘘をつくのが得意なんだ。外交にも政治にも、必要な能力だもの。しっかり身につけたつもりだよ。
だけど、信じて。僕は君が好きだ」
「殿下……」
「だからこそ……君には知られたくなかった」
ジュリアンが自分の胸元に手を触れる。
「このペンダントが、クラリッサを呼んでしまうだけの、彼女との深い絆の証だということ。
そんなものを、いまだに僕が未練たらしく持ち続けていたこと。
……知られたくなかった」
マーガレットは、ジュリアンの手に自分の手を重ねた。
「ペンダントには、何が入っているのですか?
ブラックソーン伯爵は、体の一部ではないかと……」
ジュリアンの目が見開かれる。
「ミサゴにも会ったの?」
マーガレットが黙ったまま頷いた。
彼は情けなく眉を下げて、小さく笑う。
「さすが王太子妃候補。侮れないな。
そして、ミサゴの目も、誤魔化せないね」
ジュリアンはクラヴァットを首から抜き取ると、シャツのボタンを外し、金鎖を引っ張り出した。透かし彫りのペンダントを指先でつまむようにすると、それをマーガレットに見せる。
「……乳歯なんだ」
マーガレットが驚いたように視線を上げた。
「あはは。変でしょう?
六歳頃、お互いに前歯がグラグラしてたから、引っ張りあって抜いたんだ。
クラリッサが言った。
“お互いに交換して持って、お守りにしようよ”って」
マーガレットがペンダントを見つめるので、ジュリアンは彼女の手にペンダントを持たせた。
「……小さいですね」
「本当にね。乳歯って小さいよね」
「これは……クラリッサ様の?」
「そう。クラリッサの。僕の歯は……クラリッサと共にお墓の中」
視線が交わる。
「そりゃあ……呼んでしまうよね。
彼女が来てしまったのはこれのせいだって、分かってるよ」
「ミサゴ様が、こちらを預けてほしいと」
ジュリアンが首を振る。
「……できないんだ」
「しかし」
「違う。やりたくないんじゃない。できなくなっちゃったんだ……」
マーガレットは眉を寄せた。
「クラリッサが庭に現れたその日の夜、僕はこれを……外したんだ。
引き出しの奥に、隠すようにしまってた。
でも、ある晩、クラリッサが僕のところに来た。
そして……多分、付けられてしまった」
ジュリアンの声が、震えている。
「それから……外せないんだ。外しても、外しても、いつの間にか戻ってる……」
「そんな……」
「マーガレット……ごめん」
ジュリアンが、彼女の髪を撫でる。
「マーガレット……泣かないで」
「泣いてなど……」
「君にそんな顔させるなんて……情けない……。
クラリッサとのことは、自分で決着つけたいだなんて……強がってしまった……。
そしたら、このザマだ」
マーガレットの唇が震えた。
「ブラックソーン伯爵に会いに――」
「明日、絶対に行くよ」
ジュリアンは、彼女を抱き寄せる。
「ごめん。……僕が馬鹿だった。泣かないで。お願い。君の涙には、僕は勝てそうにない」
「殿下……どうか……連れて行かれないで……」
「僕は、君の隣にいる」
ジュリアンの肩が、マーガレットの涙で濡れた。
彼は彼女の体を少しだけ離す。
そして、顔を寄せた。
熱が触れる。
ジュリアンはそっと、口づけを落とした。
呼吸が重なる。
視線が絡み合い、互いに苦しそうに、目を細めた。
「君が好きだよ。
君の隣にいるために、ミサゴを頼る。
僕が……あまりにも愚かだった」
マーガレットは彼の胸に顔を埋めた。嗚咽が漏れる。
「殿下……お慕いしています……」
ジュリアンは彼女を強く抱きしめた。
暖炉の火。
大きく揺れた後、パチリ――と小さく爆ぜた。




