二十四、秘密を分かつ
私は部屋に入るなり、驚いてアオサギを見た。彼は普通に壁に控えている。
伯爵家当主の執務室。
曲がりなりにも高位貴族。
上階まで水を汲み上げる最新の機構まで取り入れた伯爵家の執務室が……。
――あまりにも、質素すぎないかしら……?
確かに客人といえば、ジュリアン殿下くらいしか来ない。
だが、カーテンも無い。
壁にも、マントルピースにも、何も飾られていない。
絨毯は擦り切れてさえいる。
黒革張りのソファは艶があるが、逆にこれほど静かな部屋にほとんど新品のようなソファは浮いて見える。
――旦那様の私室はもっと簡素だけれど、執務室もこんな雰囲気だったなんて……。
私が口元を手で覆って見回していると、隣に立った旦那様が不思議そうに見てきた。
「どうした? 座れ、ベアトリス」
思わず、吹き出す。
「ふふ。いえ、申し訳ありません。まさかこんなに執務室が質素だとは思って無かったもので」
旦那様と、すでにソファに座っている殿下たちがきょとんと私を見つめる。まだ私の近くにいたマーガレット様は微笑み、私と目があった。彼女はふわりと笑う。
「実は私も少し驚いてしまったのですけれど……顔に出すのは失礼かと思って……」
「これは……驚きます」
二人でくすくすと笑っていると、ヴィオラ殿下とセオドア殿下も釣られるようにして少しだけ笑った。
「僕たちはまだ未成年だから、よその邸宅の執務室に入ったことがあまりなくて……。
こういうものなんだと思ってたよ」
皆で声を合わせて軽く笑う。
旦那様は、肩をすくめた。
「まぁ……座ってくれ」
「はい。関係のないことで……申し訳ありません。ふふ」
私と旦那様が並んで座り、向かいにマーガレット様とヴィオラ王女殿下、セオドア第二王子殿下が座る。
アオサギとシラトリがそれぞれの前に紅茶を淹れたカップを並べた。
二人が壁に控え、旦那様が口を開こうとした時――
ヴィオラ殿下の瞳から、涙が一粒落ちた。
「ミサゴ……。だめだったの」
私は驚いて隣の旦那様を見るが、彼はいつもの無表情のまま、頷いた。
「そうか」
セオドア殿下がヴィオラ殿下の背に手を添えてさすりながら、彼も旦那様を見つめる。
「ペンダントを借りるどころか、そんなもの知らないって言われちゃったんだ……。
兄上は嘘が……すごく上手で……僕たちでは太刀打ちできなかった……」
旦那様がまた、頷いた。
マーガレット様が、胸に手を当てて静かに話し出す。
「お二人から私も話を伺いました。
私はまだ、婚約者教育が始まったばかりで、王家の秘密は知らされておりません。
しかし、此度の件はその秘密が関わるのだとお二人から聞き……。
不躾だとは思いましたが、ブラックソーン伯爵様から、私は話を聞くべきと考えました。
……私どもには、どうやら手に余ります」
“王家の秘密”?
私は耳に手を触れる。旦那様が贈ってくださったイヤリング。
以前見た赤髪の少女と関係があるのかしら……?
私が膝に手を下ろすと、そっと、旦那様の手が重ねられた。ハッとしてそちらを見れば、黒い瞳と視線が交わる。
「はじめから話す。
ベアトリス、あなたも聞いてくれ」
「……はい」
旦那様の視線が、ローテーブルに落ちる。黒いその木の木目をなぞるように静かにそれを見つめた。
「俺は黄泉の案内人だ。この世で亡くなった者の魂を、あの世に連れて行くことを生業としている。
そして、王家と、俺たち黄泉の案内人の間には古い“盟約”がある。
王家が黄泉の案内人の立場や秘密を守る代わりに、案内人は、王国の死者の魂をあの世へ連れて行く――というようなものだ」
双子は静かに頷く。
「ジュリアン殿下も王家の人間として、俺のそばにいた。
俺の立場を守りながら、俺たちがきちんと働いているのか監視するためにたびたびここへ訪れていたんだ。
王国内には俺以外にも案内人はいるが、王都担当の俺が、窓口になっているようなものだ。
ここまでが、王家と案内人についての前提」
旦那様が、そっと息を吐いた。
この場にいる誰もが、彼の言葉の続きを静かに待つ。
「そして、今回の娘の話だが……。
赤髪の少女は、殿下のかつての婚約者クラリッサ・ヴェインローズ。
五年前、流行り病により十四歳で早逝した娘だ。
――あの世への案内も、かつて俺がした。
死者の中でも、あまりにも強い執念を持っている者は、案内しても時折戻ってきてしまうことがある。
また、生者の死者への強すぎる執着が、彼らを呼んでしまうこともある」
双子の視線がゆっくりと下がり、ヴィオラ殿下の隣にいたマーガレット様が、彼女の手をそっとさすった。
「今回は、その両方だ。
その上、クラリッサ嬢は触れてしまった」
――何に?
旦那様がちらと、一瞬だけこちらを向く。だが、視線はすぐにテーブルに戻されてしまった。
「殿下の持っているペンダント。
あれから、妙な念を感じた。もしかしたら、あれはクラリッサ嬢の体の一部なのではないか?」
「体の一部……ですか?」
マーガレット様の柳眉が寄る。
旦那様は首を振った。
「何なのかは分からない。
何事もなければ、あれは殿下を守ってくれたかもしれないが、今は力が強くなりすぎて呪具になってしまった。
――あれを、殿下から取り上げたい」
旦那様が背もたれに背を預ける。
「王家との盟約がある。
“王太子”である彼を守ってやりたい。
だが、無理やり執着を断ち切れば、人は心を壊してしまいかねない。
それだけは……避けたいと思っている」
窓の外、庭園の向こうに王都の街並みがぼんやりと見える。
白い光が満ちていた部屋は、いつの間にか、少しずつ黄色みを帯びてきていた。
「マーガレット嬢。
もう、あなたにしか頼めない。殿下のペンダントを預かってきてくれ。
もしあなたでも出来なかったら――」
マーガレット様が真っ直ぐに旦那様を見る。
「俺は王城へ行き、殿下の執念を、断ち切る」
双子が俯く。
私は言葉を挟むこともできず、ただ、夕刻の近づいてきた部屋で、静かに座っていた。
夕刻。
玄関の車寄せまで、彼女たちを見送る。
「あの……マーガレット様」
黒塗りの大型の馬車が、馬車置き場から車寄せまで回されてくる間。
声をかけると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「はい。ブラックソーン夫人」
アゲハからリボンと綺麗な紙で包んだハンカチを受け取り、それをマーガレット様に差し出す。
「……殿下とお茶にいらしたときに贈らせていただきたいと思っていたのですが……。
こちら、良ければ受け取っていただけませんか?」
「……開けてみても?」
「はい」
マーガレット様が包みを開く。中にあるのは白地のハンカチの縁に、シルヴァミア領の伝統的なレース編みを施したもの。
「まぁ! 可愛らしい!」
「波を表現したレース編みで、シルヴァミアでは“三重の波”と呼び、縁起のよい紋様とされているんです」
マーガレット様はそれを胸に抱くようにすると、花が咲いたように笑んだ。
「とても素敵! 嬉しいわ! ありがとうございます」
ハンカチを広げ、ゆっくりと眺める。
「すごく美しい……。
ブラックソーン夫人は手先も器用なのね……羨ましいわ」
「いえ、器用というわけでは……」
「今度、ぜひ教えてください」
「え……それは構いませんが……。
マーガレット様はお忙しいのではありませんか?」
「ぜひ教えてください」
華やかな満面の笑み。
断れない圧を感じた。
「あ……はい。喜んで」
馬車が車寄せに入ってくると、マーガレット様は私に向かってにこやかに笑んだ。
だが、私の隣にいた旦那様に体を向けると、ふっと表情を変えた。
「殿下の件。やれる限りのことをしてみます」
「頼みます」
彼女が軽く目礼をする。
そばにいたヴィオラ殿下とセオドア殿下は気落ちしたまま、だが、礼だけはしっかりとして、彼女とともに馬車に乗り込んだ。
馬車が動き出す。
石畳の並木道を駆け、門を抜け、王都の街中へとその背が溶けていった。
「ベアトリス……あの紋は……」
私が顔を上げる。
「あれはシルヴァミアの――」
旦那様の顔。わずかに顔色が悪いような気がした。
「あの……何か?」
「いや……。戻ろう。冷えてきた」
旦那様が私の背に手を触れ、邸宅の中へと導く。
玄関扉をアオサギが開けると、夕陽の金色が、邸宅内へと滑り込んだ。




