二十二、ほどけないもの
今日も、ジュリアンとマーガレットはその腕を絡めて、橋の上から池を見下ろしていた。
底の浅い池の水面に、二人の姿が映り込んでいる。小さな魚が横切るたび、じわりとそれは揺れた。
マーガレットが顔を上げて隣の男を見ると、ジュリアンも、彼女を静かに見つめている。
その琥珀の瞳が、柔らかく細められた。
手を伸ばし、彼女の長い前髪を手に取ると、そっと口づける。その袖口には、以前マーガレットが贈った翡翠のカフリンクス。
マーガレットの頬が、ゆっくりと赤く染まった。
「穏やかだね」
「……殿下といる時間は、穏やかです」
「そう?
そんなこと言われたことないな。マーガレットが穏やかだから、僕がきっとつられているんだ」
「それならば、嬉しいです」
マーガレットがふふっと笑うのを、ジュリアンは口元を緩めて見つめた。
「どうしてそう思う?」
「お忙しい方ですもの。背負っているものも、大きいですから。殿下のお心をゆるりとして差し上げることができるのなら、光栄に思います」
二人の視線が交わる。
風が吹いて、池の周りに生える木立の葉が揺れた。はらりと水面に落ちたそれが、回りながらゆっくりと流されていく。
ジュリアンは自分が着ていたフロックコートを脱ぐと、彼女の肩に掛けた。
「冷えてきたね。
そろそろ君と会うのは城内にした方が良さそうだ」
「殿下……。殿下が冷えてしまいます」
マーガレットが慌てて肩からコートを外そうとしたが、ジュリアンはそれを阻むように彼女の肩を抱いて歩き出す。
「マーガレットが僕にくっついてたらいいよ!」
ジュリアンは声を立てて笑った。
「あ、外でフロックコートを脱ぐ紳士は嫌い? マナーがなってないかな。
でも、ここには僕たちしかいないし――」
「そういうことでは」
「君は僕の一つ下の十八だよね。よく残っていてくれたなって……」
ジュリアンはマーガレットの肩から腕を離すと、肘を差し出した。彼女は諦めたように小さく息を吐き、そこに自分の腕を絡める。
「婚約の年齢の話でしょうか?」
「そう。大抵十六までには相手を決めてしまうでしょう?
特に君のような高位貴族の子女は」
「正直に申し上げてもよろしいのですか?」
「いいよ」
「殿下の婚約者がなかなか決まりませんでしたので、貴族令嬢たちとその親たちは希望が捨てられず、婚約を決めずにいたのです」
「あ、僕のせいか」
ジュリアンがマーガレットを見ると、彼女はふわりと笑った。
「我が家も……そうでした」
「そうか。決めないでいてくれて、良かった」
王太子が彼の腕に置かれた彼女の手に、反対の手で触れる。
「婚約者教育は……大変でしょう?」
「……大変興味深くて、いつも楽しく受けております」
「本当にぃ?」
「先日は王妃陛下と孤児院へ行ったのです。子どもたちに囲まれてしまって身動きができなくなってしまった時に王妃陛下が“一番早く静かにできた子にトフィーをあげる!”と叫ばれて……」
「あぁ……言いそう」
「王妃陛下のポケットから本当にトフィーが出てきたときは驚きました。王妃陛下付きの侍女たちも驚いていたので、つい笑ってしまいましたわ」
「僕の母上って感じでしょ?」
「えぇ」
クスクスと笑っているマーガレットを、ジュリアンは優しく見つめた。
「王家に嫁ぐのは、嫌ではない?」
「皆様、良くしてくださいます。
プレッシャーがないわけではありません。
でも、何より……夫はジュリアン殿下ですから」
「僕だから?」
「……楽しみです」
彼は顔を手で覆うと笑い出す。
「うわぁ! 最高に可愛い!」
マーガレットもたまらず、頬を染めて笑い出した。
二人で庭園を歩きながら、笑う。
穏やかで、優しい時間。
誰もが、この時がずっと続けばいい――そう思っていた。
ジュリアンと別れて侯爵家の馬車に乗り込み、帰路につこうとしていたマーガレットだったが、車は不自然に門前で停まる。
「……どうしたの?」
共に乗っていた侍女も不思議そうな顔をしながら扉に寄ると、向こうからそれが開いた。
立っていた御者の男が、困ったような顔をして、頭を下げる。
「お嬢様……お客様が」
「え?」
マーガレットは御者の手を借りて急いで馬車から降りた。
外は赤い。
夕陽が王都の向こうに触れている。門外へと続く灰色の石畳も、今は赤く染まっていた。
馬車の影から、少年と少女が静かに出てきた。
「あ……。ヴィオラ王女殿下とセオドア第二王子殿下ではありませんか」
マーガレットは驚きつつも、二人に向かってカーテシーをする。
「マーガレット様。その……お願いがあるの」
「まだ、あなたには王家の秘密は知らされていないと思う。
だけど――」
二人は互いに目を合わせてから、ガバっと頭を下げた。
「まぁ! おやめになって!」
マーガレットが止めようとするも、二人は首を振って、頭を低く下げる。
「お兄様を助けてください!」
「僕たちだけじゃ……だめなんだ!」
「お願いします!」
マーガレットは二人の姿に息を呑むと、侍女の方を見た。
「家に、帰宅が遅れると知らせを出して」
彼女は二人に歩み寄ると、大きく頷いて見せた。
「お話を伺えますか?」
双子が顔を上げる。その瞳は、どちらも同じように潤んでいた。
「はい!」
夜。
ジュリアンは一人、ローテーブルに置いた燭台の明かりを頼りに書類を眺めていた。
一人分の影が、壁に大きく映し出されている。
カサリ――と、小さな紙の音。
それだけが、今はあった。
だが――ソファのクッションが一瞬沈む。
彼は自分の隣を見た。
「また……来たんだ」
彼の隣に座っているクラリッサは、にこりと笑った。
「来た。ジュリアンに会いたいもの」
「クラリッサ……僕は――」
「どうして外したの?」
彼女の水色の瞳。
まっすぐに見つめてしまうと、離せなくなってしまう。
「……何を?」
「私とジュリアンの絆の証。
私知ってるのよ。朝起きるたび、悩むんでしょ。つけようか、つけまいか。
つけてよ。そういう約束だったじゃない」
「約束なんか……してないだろう?」
「してない。
でも、ずっとつけてた。何年も何年も肌身離さず、つけてた。私も、そうしてた」
クラリッサがドレスの胸元から、金の鎖を引き出す。
ジュリアンが持っていたペンダントとお揃いの金の透かし彫り。彼女が指先でそれを持ち、軽く振ると中に入った白い物が、小さく音を立てた。
「ジュリアン。つけて」
彼は首を振る。
「クラリッサ。“輪廻転生”というのだろう?
ここに来てはいけない。
君は新たな生を受け、幸せになるんだ」
「私が邪魔になったの?」
「違う。そういうことでは――」
クラリッサがジュリアンの肩にしなだれかかるようにすると、彼の肩が震えた。
「ねぇ、どうして君は僕に触れるの?」
「力をもらった」
「誰から……?」
「ジュリアンと、多分あの人から」
ジュリアンの呼吸がわずかに浅くなる。
彼女の方に顔を向けると、その赤い髪に燭台の明かりが滑らかに流れていく。
「……あの人って……?」
情けないほどに、声が震えていた。
クラリッサはジュリアンの身体に腕を回して抱きつく。
「あの頃は幼くて、こういうことはあまりしなかったね」
「クラリッサ……」
「でも、キスは一回だけした」
クラリッサが、ジュリアンに顔を寄せる。
彼は身体が硬直してしまったかのように、ろくに動けなかった。
「ねぇ、キスしよ」
「……だめだよ。僕はもう――」
彼女の瞳。
ゆらりと滲み、そこには、ジュリアンが写り込んでいる。
「……なぜ? 前は」
彼はハッとして、彼女から顔を背けた。
「キスはしない。君は帰るんだ」
「……意気地なし」
クラリッサはジュリアンの胸を強く押した。
途端に――
ふっと、ジュリアンの身体にかかっていた力が抜ける。
先程まで彼女がいた方を見た。
もう、そこには何もない。
ジュリアンは、ほっと息を吐き出した。
身を起こし、額に手で触れる。
だが、チャリ――と、小さな音。
彼は自分の胸元に手を触れた。
首元まできっちりと留めていた夜着のボタンを、外す。
自分の肌の上。
外したはずのもの。
――金鎖が、そこにある。
震える手で、それを引き出した。
「……どうして」
透かし彫りの金細工。
向こうで、火が揺らぐ。
「引き出しの奥に……しまっておいたはずなのに」
喉が張り付き、うまく呼吸が吸えない。
「なぜ……君は……」
ジュリアンの指先から、ペンダントが離れる。
そっと、彼の夜着にそれは触れた。
火が、大きく揺れた。




