二、噛み合わない会話
私は驚いて顔を上げた。
ブラックソーン家は伯爵家だ。
王都グレイヘイヴンの中心地よりやや外れた場所に邸宅があるが、このあたりに建つ貴族の邸宅としては、ごく平均的な規模の屋敷と敷地を持っていた。
庭園も、前庭も、流行りのナチュラルガーデンとして整えられている。
私はその庭園のガゼボで、一人、ティータイムをしていた。
白塗りの大きなガゼボ。
その中に置かれたガーデンテーブルと椅子。
よく風が通り、庭園の植物の香りをここまで運び込んでいた。
ふと手元に影が差し、顔を上げたところ、そこに立っていたのは旦那様だった。
なぜか、自ら陶磁のカップを持ってきている。
「隣に座っても?」
「え? えぇ……どうぞ」
彼が座る。
ウッディ系のトワレ。
横を見ると、視線が合う。
彼は何も言わずにカップとソーサーをテーブルに置くと、執事長のアオサギが当然のようにそこに紅茶を注ぐ。
旦那様の大きな手が、そっとカップを持ち上げる。
私の視線を感じたようで、もう一度こちらを向いた。
「……乾杯」
「え! か、乾杯」
私は慌ててカップを持ち上げた。旦那様がふっと笑う。
「紅茶で乾杯はしないか……」
旦那様が口にカップを当てると、その喉仏が、ゴクリと動いた。
視線を滑らせる。
切れ長の黒い瞳。
鈍い日差しが差し込んでも、沈んでいるように黒い。
コトッと小さな音が立つ。
旦那様がカップをソーサーに置いた。
「結婚したら、大抵の人間は休暇を取るものだと殿下に言われた。その期間を使って、妻を旅行に連れて行ってやるのだと」
「新婚旅行のことですね」
旦那様がこちらを向き、小さく頷く。
「だが、あいにく俺は仕事の都合で王都を離れることができない」
「はい。旦那様がお忙しい方なのだということは、伺っています」
私たちは、王命による結婚だった。
婚約期間はほとんど設けられず、結婚前に会ったのは、婚約の挨拶に伺った日と、教会で結婚の署名をしたその時の二回だけ。
私は彼のことを、ほとんど知らない。
「どうしようか」
「……へ?」
旦那様が腕を組み、遠くの方を見つめている。
――王命での結婚。
――その上、おそらく、白い結婚。
なのに、新婚旅行には行くつもり……?
「馬で、郊外の湖でも見に行くか?
そのくらいなら、夜までには戻ってこれるだろう。
それか――」
彼が、こちらを向く。
「アゲハでも連れて、あなた一人で旅行に行くか?」
私は思わず眉を寄せる。
――それはもはや“新婚”旅行ではないのでは……?
「どちらでもいい。あなたに任せる」
視線が交わる。
まっすぐな、黒い瞳。
「う……馬で……湖に……」
「分かった。調整しよう」
彼がまたカップを持ち上げる。
私はずっと手に持ったままだったカップを置く。
――私と、ブラックソーン家の“結婚”の概念がそもそも違うのでは?
私は振り返る。
離れて控えているアゲハ。
執事長のアオサギ、メイド長のシラトリ。
それから他にも、まだ顔と名前が把握できていない使用人たち。
アゲハが私の視線に気づいて、にっこりと笑った。
――拒絶されていないのなら……まぁ、いいか……。
いいのかな……本当に。
◇
夜。
ブラックソーン伯爵邸、ミサゴの執務室。
伯爵家当主の部屋だというのに、窓にはカーテンが掛かっていない。黒壇の巨大な執務机をはじめとして、全ての調度品は黒で調えられている。
――だが、ほとんど物がない部屋だった。
壁にも、マントルピースの上にも、何も飾られていない。
書棚も、ほとんど空。
かろうじて敷かれている絨毯は年代物で、擦り切れている箇所さえあった。
窓の月光を背後に、椅子に座ったミサゴが顔を上げる。
「……初夜?」
机を挟んで向こうには、執事長のアオサギ、メイド長のシラトリ、ベアトリスの侍女アゲハが並んでいる。
白金色の髪に黒目がちな瞳をもつ中年の女、シラトリはゆったりと頷いた。
「アゲハが奥様から“旦那様が初夜に来ない”と伺ったそうです。
デリケートなお話ですから、旦那様から奥様にきちんとお話されるべきでは?」
のんびりと話す女だ。
隣に立つ執事長アオサギは、ほとんど白髪だが、耳の近くに黒い毛が一房ある。黒い瞳が静かな、どこか飄々とした雰囲気の男だった。
「旦那様……まさかお話されていないのですか」
「……そんな概念もあったな」
「まぁ……旦那様ったら」
シラトリが頬に手を当てて、困ったように眉を下げた。
「“しょや”とは、結局何なのですか?」
アゲハが不思議そうにシラトリとアオサギを見つめるも、二人して少し眉を寄せる。
ミサゴはその黒髪をかき上げると、息を吐いた。
「結婚した男女が身体を繋ぐ、最初の晩のことだ。儀式といってもいい」
「はぁ……交尾のことですね。
なるほど、旦那様はそれをしなかったと……。
え、問題ないのですか?」
アオサギが首を振る。
「王家は、ブラックソーン家が血を繋ぐことを望んでいます。
そのための“王命”ですから。
……旦那様、逃げてはなりませんよ」
ミサゴはふっと視線を壁に逃がした。
「俺は……彼女と身体を繋ぐことはないよ」
「あ、男性機能に問題がお有りなの――ぐっ」
シラトリがアゲハの口を手で塞ぐ。
アオサギは二人を無視すると、身体の前で手を組み直し、ミサゴを静かに見つめた。
「それから、女主人の仕事に使用人の管理がございます。
そのためには――」
「管理はさせない」
ミサゴが、三人を順に見る。
「邸宅の管理はしてもらって構わない。庭園も、各部屋の調度品も、彼女に任せたい。
もちろん、俺の管理下にある部屋は別だが。
領地管理についても、彼女がもし興味があるなら、管理人とのやりとりをさせてもいい。領地の視察なんかも含めて、なんでもやってもらっていい。
逆にやりたがらなかったら、無理してやらせなくてもいいから。
彼女にはくれぐれも不快な思いはさせないようにしてくれ」
彼が、立ち上がる。
「嫁いできてくれたんだ。人として最大限尊重する」
使用人の三人が頭を下げた。
「だが、俺の仕事と、使用人の管理にだけは触れさせるな」
窓の向こう。
満月が静かに彼を見下ろしている。
「彼女を俺が抱くことはない」
彼の黒い瞳が、わずかに赤を帯びた。
「絶対にこちらへ来させるな」
「御意」
三人がもう一度頭を下げ、順に踵を返す。
「あぁ、アゲハ。明日の朝食は、彼女の私室でとるのはどうだろう」
アゲハが振り返った。にこりと笑う。
「はぁい。用意しておきます」
三人が部屋を出ていく。
扉が、閉まる。
ミサゴはウェストコートのポケットから懐中時計を取り出した。
「……時間だ」
帽子と杖を手に取り、彼も、部屋を出る。
部屋に残されたのは、月光。
それだけだった。




