一、はじまりの夜に
――たすけて
轟音。
濁流。
抵抗する術など、なかった。
水の塊が体を打ち、押し流される。
本能が呼吸を欲しても、水ばかりが口に入ってくる。
体が千切れてしまいそうなほどの、力。
荒れ狂う川の水。
――お父様! お母様!
体が、否応無しに水底へと引きずり込まれていく。
絶望が、心を侵食する。
――その時。
子どもの手。
私は、がむしゃらに手を伸ばした。
あの手を掴もうとした。
だが、水に弾かれ、押し戻される。
それでも、
――手を、伸ばした。
あの日に見た赤色は、
――瞳の色だった気がする。
少年の、髪の色だった気もする。
彼は“良かった”と笑っていた気がする。
でも、もしかしたら、
あの赤は、誰のものでもない、灯火だったのかもしれない。
私は、目を覚ました。
遅れて身体を起こす。
長く息を吐き、部屋を見回した。
衣擦れの音。
見慣れない部屋。
肌に触れていた、質の良いリネンのシーツ。
ベッドサイドに置いていた、オイルランプの火が弱く揺れている。
窓には銀刺繍の施された厚手のカーテン。
その隙間から、淡い金の光が部屋に滑り込んでいる。
「私……寝てしまったのね……。
あの夢を見たのは……久しぶりだわ」
額を軽く押さえて振り向く。
自分の金の髪が、そっと背を撫でた。
大きなベッド。
乱れのない冷え切ったシーツ。
そっと、息を吐く。
ベッドを降りて、スリッパに足を入れる。
広い寝室。
天蓋の布は光沢のある青のベルベット地。
向こうにある布張りのソファセットも、深い青のダマスク柄だった。
――なぜ青なのかしら。
オイルランプの火を、ふっと吹き消した。
毛足の長い絨毯を踏み、窓辺へ。
カーテンをめくり、窓を押し上げた。
風が、頬を撫でる。
窓の縁に手を置き、大きく息を吸った。
――私が青が好きだから?
でも。
「……きっと違うわね」
だって。
そんな事を気にしてくださる方なら、こんなことしない。
「初夜をすっぽかされてしまったわ……」
言葉が、風にほどけていく。
私はベアトリス・シルヴァミア。
昨日結婚し、ベアトリス・ブラックソーンとなった。
「……誠実な方に……見えたのにな……」
こうして私は
――“夫に愛されない妻”になってしまったのだと、思った。
ノックの音。
私が振り向くと、私の侍女として充てがわれたアゲハが開いた扉のそばで一礼し、それからゆっくりと私に向かって歩いてきた。
私より少し年上の艶のある女性。黒髪に金茶の大きな瞳。黒い制服のデイドレスが、よく似合っている。
「奥様。おはようございます」
にこっと笑った。
黙っていれば艷やかなのに、笑ったり話したりするとどこか幼く見える。
「奥様のお部屋に移動して、朝のお支度をしましょう。それから旦那様と朝食です」
「……旦那様と?」
――どんな顔して会えばいいの?
アゲハがパチリと瞬きをした。
「あ、旦那様と朝食は嫌ですか?
そしたら、お部屋に運びますけど」
私は口元を手で覆いながらアゲハに近づくと、彼女は当たり前のように私の手を取って繋いだ。
「嫌なわけでは……。
旦那様はその……初夜にいらっしゃらなかったものだから……」
「“しょや”?」
「え……えぇ……初夜」
顔が熱くなる。
どうせ、この部屋を見れば、旦那様が来なかったことは使用人にはわかる。だから素直に話したのだけど……。
「“しょや”とは何ですか?」
「え!?」
私は説明しようと口を開くが、やっぱり言葉にはできず、俯いた。
「申し訳ないです。私、ちょっと歴が浅いもので。後ほどシラトリに確認します」
「“歴”……」
――侍女歴、関係あるかしら……。
アゲハがまたにっこりと笑う。そのあどけない表情に、つい肩の力が抜けてしまった。
「奥様は青が好きだと伺っています。
一発目は水色のモーニングドレスにしましょう。
旦那様がお選びになったものです。
とても素敵でした。きっと奥様によく似合います。着付けるのを私も楽しみにしていたんです」
「そ……そう」
――“旦那様が選んだ”?
――初夜に来ない人が、ドレスを選ぶ?
アゲハに手を引かれ、私は寝室を出た。
支度を整えて向かったのはサロンだった。
正餐室よりは質素だが、白大理石の暖炉の彫刻が美しく、淡い青に植物柄の施された壁布は、穏やかで静謐な空気を作り出していた。
いくつも並んだ縦長の窓から差し込んだ朝の柔らかい光が、部屋全体を淡い金色に染めている。
部屋の中央のソファにいた旦那様――ミサゴ・ブラックソーンが立ち上がった。
背の高い彼。
私にゆったりと近づくと手を差し出した。
「ベアトリス。おはよう」
彼を見上げる。
艶のある黒髪に真っ黒な瞳。
「旦那様。おはようございます」
彼の手に指先を添える。
旦那様の端正なお顔の口元が、少しだけ緩んだ。
「そのドレス。あなたに似合っている。選んで良かった。藤色も似合いそうだ。
……贈っても?」
「え……それは……。ありがとうございます」
――どういうこと?
周りを見渡す。
壁には、アゲハと執事長、メイド長などがずらりと並び、その全員が視線を下げているが、空気は柔らかい。
旦那様に手を引かれ、ソファに座る。
対面に座ると思っていた。
だが、彼は当然のように隣に腰を下ろす。
「俺はいつも、朝食は珈琲とパンで済ませてしまう。あなたがどうなのかわからなかったから、今朝はサロンに来てもらったんだ。明日以降はあなたに合わせよう。
どうする?」
「え?」
(私に合わせるの?)
――つまり……どういうこと?
――私は、受け入れられているの?
――受け入れられていないの?
……どっちなの?
「特にこだわりはないので……私も旦那様に合わせます……」
私は、とりあえず、微笑んだ。




