十九、あなたを守るもの
ミサゴは手の中の紙くずとなった式神を見下ろし、握りつぶした。
その拳にふっと息を吹きかけ、手を開く。
残っているのは、わずかな灰だけ。
手を払い、それを黒い机上に落とした。
「弾き返されたようだ」
未明のブラックソーン伯邸。執務室。
黒壇の執務机の上に置かれた燭台。
溶けた透明な蝋が、向こうを透かしながらゆっくりと下へ、蝋燭を伝って落ちていく。
執務机の向こうに並ぶアオサギ、シラトリ、アゲハは三人共に顔を青ざめさせ、椅子に座っているミサゴを見つめた。
カーテンのない窓のガラスに、大粒の雨が打ち付けられている。
「旦那様……どうされますか?」
アオサギの声。
「早急に登城したいと連絡を入れてくれ」
「御意」
アゲハは息を呑み、体の前で組んでいた指を入れ替えた。
「あの赤い髪の女の子を……旦那様は知っているのですか?」
雨音。
物の少ない部屋に、それはいやに響く。
「おそらく知ってる人物だ……。俺が過去に案内した少女だろう」
アゲハが隣に並んでいたシラトリとアオサギを見ると、彼らはゆっくりと視線を下げる。壁に、彼らの影が大きく映っていた。
「お二人も……知っている人なのですか?」
「彼女で間違いがないのなら……よく知っているわ」
「私もあの方とは、まだご存命の時に話をしたこともあります」
アゲハは目を見開くと、ミサゴを見る。彼の闇夜の瞳は、じんわりと赤く染まっていた。
「旦那様……。
奥様とは関係のない女の子ですよね……?
なぜ……」
ミサゴが、ゆっくりと視線を上げる。
「多分、ベアトリスが呼び水になってしまったんだ」
「……どういう意味ですか?」
彼は立ち上がると、着込んだままだったコートを脱ぎ始める。アオサギとシラトリが手伝い、ウエストコートやクラヴァットを外した。
「俺は部屋に戻る。
ベアトリスが起きたら呼んでくれ。
朝食を取りながら、少し話をする」
窓の外。
雨粒の向こうの空が、少しずつ白みを帯びてきていた。
アゲハはそれを見、頭を下げてから執務室を退室する。
扉の閉まる音。
燭台の火が、ふっと揺れる。
「……どう伝えればいいのだろうか。彼女は、傷つかないだろうか……」
「旦那様」
アオサギはわずかに眉を下げる。
ミサゴは高襟シャツのボタンを外し、首元を緩めた。
「やはり、手を伸ばしてはいけなかったのかもしれない」
手首のカフスボタンを外す。袖をまくり上げ、手首を顔に寄せた。
――こびりついている、死者の匂い。
ミサゴは瞳を伏せた。
もう一度瞳を開けると、赤く滲んでいた瞳はいつもの黒に戻る。
黒壇の机の前に腰掛け、窓を見つめた。
雨粒が、砕かれては下へと流されていく。
◇
私が目覚めると、すぐ脇にアゲハが立っていた。体を起こし、軽く伸びをする。
まだカーテンの閉められたままの窓の向こうから、雨の音がしていた。
「おはよう。アゲハ」
「……おはようございます。奥様」
「どうしたの?」
「体調はいかがですか?」
「え?」
アゲハの顔を見上げると、心配そうな金茶の大きな瞳。
私はベッドを降りて彼女の前に立つと、その額に手を添えた。
「……熱はないわね」
「奥様?」
「……私の体調はとてもいいわ。アゲハの方が、体調が悪いのかと思ったの……。
どうしたの?」
アゲハが勢いよく私に抱きついてくる。
「えぇ!?」
その背に腕を回し、トントンと叩いた。
「アゲハは奥様が大好きです」
「私もアゲハが大好きよ」
「アゲハは分からないことがたくさんあるんです。混乱してしまいました」
「まだ一歳だものね」
アゲハが私に抱きついたまま、首を傾げる。ゆっくりと離れると、きょとんと私を見た。
「……一歳」
「この世に産まれてまだ一年にも満たないかもと、旦那様から伺ったわ。
蝶だったのだものね」
アゲハの眉がみるみる寄っていく。
「私は……まだ赤ちゃんだった……?」
真剣な眼差し。思わず私は吹き出してしまった。
「ふっ……。赤ちゃんでは……ないけど……」
「そうですよね……。私、成体にはなっていたので……大人なはず……。
え? 一歳?」
「そうよ。まだまだ分からないことがたくさんあるわね。
二十年生きていても分からないことだらけなんだから、仕方ないわよね」
私が笑いながら洗面台に向かうと、アゲハは真剣な表情のまま私の後をついてきた。
白と水色の湖畔のような部屋に、雨音はよく似合う。
朝の支度を終えて、出窓の前のソファに座っていると、旦那様が入ってきた。
白い高襟シャツに、羊毛のニットジャケット。楽な服装だけれど、黒髪はきっちりと撫でつけられたまま。
「おはよう。ベアトリス」
「おはようございます。旦那様」
二人掛けのソファ。当たり前のように並んで座る。
肩に触れる旦那様の体温。
それから、立ちのぼる白檀の香り。
テーブルに並べられたコーヒーや紅茶より、この香りが好きだ。
旦那様は体を少しだけこちらに向けると、握っていた手のひらを開いて見せた。彼の大きな手のひらに裸のままでのせられていたのは、水色の宝石のついた一対のイヤリング。
「これを、あなたに贈りたい」
「え……?」
そっと、指先でつまんで持ち上げる。
雫型にカットされた宝石。
「……ありがとうございます」
雨空から部屋に差し込む光は、ひどく鈍かった。それでも、窓に石をかざすようにすると、きらりと澄んだ光を返す。
「……きれい」
「あなたの瞳の色だ。綺麗に決まっている」
驚いて旦那様を見ると、彼は表情を全く変えないまま、私が持つ宝石を見ていた。
「殿下から貰った守り石にヒビが入ってしまったんだろう?
その代わりだ。俺の守護を掛けてある」
頬が、じわじわと熱くなる。
「……旦那様は、私の瞳の色は、綺麗だと思いますか?」
旦那様の視線が、こちらに向けられる。
「よく澄んだレイク・ヴェスパーの色だ。
あなたの瞳以上に綺麗なものを俺は見たことがない」
思わず、宝石を握り締める。しずくの先端部分が手に食い込んで痛い。
「そ……それは……。うっ……」
「うわぁ、熱烈ですね――ぐっ」
「こういう時は静かになさい」
シラトリによってアゲハの口が塞がれた。
壁に控えていた三人を見て、ますます顔が熱くなる。
旦那様は黒い瞳をこちらに向けたまま首を傾げると、テーブルに並ぶ朝食に視線を滑らせた。
「……あぁ。なるほど。俺は今ベアトリスを口説いていたのか」
だが、彼はそのままコーヒーカップを手に取り、口に運んだ。そして、ゆっくりとこちらを向く。
「ほら、食べよう。お茶が冷めてしまう」
「あ、はい」
私がカップを持つと、旦那様の視線を感じた。
顔を上げる。
「あの……?」
「……赤い髪の少女に会っただろう?」
先日、アゲハと手芸用品店に行った日のことを思い出す。
「……はい」
「あれは……あの世の住人だ」
「え?」
黒い瞳はまっすぐに私を見つめていた。
「こちらに、招かれてしまったようなんだ」
「それは……」
「俺が連れて帰らねばならない。だが、向こうは俺を避けているようだ」
彼が、窓の方へ顔を向ける。
「だから……しばらくは外出する際にはそのイヤリングを身に着けていてほしい。
邸宅にも俺は守護を掛けているから、邸内にいるときは外しても問題ない」
「旦那様……あの少女は、どなたなのですか?
なぜ、私のところへ?」
彼の視線が、窓ガラスを落ちていく雨を追いかけていた。
旦那様の口が、ゆっくりと開く。
だが、言葉が紡がれることはなかった。
また静かに閉じられると、彼はコーヒーを口に含んだ。
「……とにかく、気をつけてくれ」
「……はい」
雨音。
どこか遠くから、ゴロゴロと雷鳴が聞こえてきた。




