十八、触れるひと
「殿下……」
「ん? ……あぁ、もう下がる?」
夜。
ジュリアンの寝室のソファセット。
彼とオズワルドは向かい合ってチェスをしていた。
ジュリアンが顔を上げると、オズワルドはその藍の瞳をまっすぐに彼に向けている。
「明日、時間を作りますか?」
「……何の?」
「ミサゴ様に会いに行く時間です」
テーブルの上のオイルランプの火が、ゆらりと揺れた。ジュリアンはふっと笑う。
「……いや、いいよ」
オズワルドは一瞬だけ、目を見開いた。
「何故です? 相談されるべきでは?」
「クラリッサの件でしょ? ……たまたまだよ」
「たまたま……ですって? あの場にいた全員がクラリッサ様を見たんですよ?」
「彼女が、僕たちに悪いことをすると思う?」
オズワルドは息を止めて、姿勢を正す。
「殿下。それでも、相談されるべきです」
窓ガラスを、ぽつりと雨が打った。
ほとんどの明かりを落とした部屋。ローテーブルの上だけに橙の明かりが灯り、ジュリアンとオズワルドの表情さえ、ぼんやりと滲ませていた。
ジュリアンは夜着の上から、胸元にそっと触れる。
「クラリッサがこちらに呼ばれてしまった理由にも、見当がついているんだ。自分でなんとかするよ」
短い息が、吐き出された。
「それは殿下の悪癖ですよ」
「えぇ?」
ジュリアンが軽く笑う。
「ここぞという時に、急に内にこもられてしまう」
王太子は、チェスの駒に触れた。
「はい。チェックメイト。――この話はおしまい」
「殿下」
彼はさっさと駒を片付け始め、視線をオズワルドに合わせようとはしない。
「殿下。それでは、私一人でミサゴ様のところへ行ってまいります。よろしいですか?」
「だめだよ」
オズワルドは駒を持つジュリアンの手を掴んだ。
「殿下」
指先から駒が離れ、テーブルに転がる。
「……落ちちゃった」
「殿下。こちらを見てください」
ジュリアンの視線は、テーブルに落ちたまま。
「僕だって、これじゃいけないってわかってるよ。でも……やっぱりまだ……うまく消化しきれていないんだ。まだ誰にも、彼女との思い出には触れられたくない」
オズワルドは手を離すと、落ちた駒を拾った。
「マーガレットには、本当に惹かれているんだ。だからこそ、ちゃんとけじめをつけたい。彼女との婚約披露の前までには」
ジュリアンは自分の膝の上で指を組み、オズワルドは駒を箱に戻して、その箱を両手でそっと抱えた。
「だから、もう少しだけ……。僕に時間をくれないか」
オズワルドがゆっくりとため息をつくと、ジュリアンは苦く笑う。
「僕、女々しいだろう? こんな僕を知っているのは君だけだよ。秘密にしてね」
「“化け狐”ですからね。いろんな一面をお持ちなんですよ」
「それ、全然フォローになってないからね?」
「そうですか?」
ジュリアンが声を立てて笑うと、オズワルドは少しだけ柔らかく目を細めた。従者はチェスの駒と盤を持ち、立ち上がる。
「では、私は下がります」
「うん。おやすみ」
オズワルドが扉へ向かうのを見届けると、ジュリアンはソファから立ち上がり、暗い窓辺に立った。
首から、金鎖を外す。
ペンダント部分を手の中で転がし、それを静かに見つめた。
雨の音。
雨粒がガラスに砕かれ、そっと落ちていく。
「チェス、強くなったんじゃない?」
少女の声。
ぞわりと、肌が震えた。
ジュリアンは急いで部屋を振り返る。
先程までジュリアンが掛けていたソファの近くに立っているのは、赤髪の少女。
十四歳で亡くなった姿のままの、彼女だった。
「……クラリッサ」
ジュリアンは思わず一歩下がり、雨で湿る窓ガラスに背が触れた。
「背も、伸びたね」
華やかな赤髪。
大きな水色の瞳。
少女は変わらぬあどけない顔で、にっこりと笑った。
「格好良くなった」
彼女が一歩、一歩とこちらへ寄ってくる。
テーブルの上に置かれたままのランプ。
だが、彼女の足元だけ、影は揺れていない。
クラリッサは、ジュリアンの目の前で立ち止まると、彼の琥珀の瞳を見上げた。
腕を伸ばして彼の背の高さに手のひらをかざす。
一瞬、ジュリアンの肩が震えた。
「ほら。こんなに身長差が。同じくらいだったのになぁ」
「……クラリッサ」
ジュリアンの手の中にあるペンダント。
彼はそれを握り締める。
「僕が……君を呼んでしまったの?」
水色の瞳。
晴れた日の空の色。
だが、そこにジュリアンは映っていない。
彼は、ひどく胸が締め付けられた。
「ジュリアン……」
変わらぬ声。
ジュリアンは奥歯を噛み締める。
「……クラリッサ。戻らないと……いけないよ」
「どこへ?」
「どこへって……あちらの世へ……」
彼女は手を伸ばした。
ジュリアンの頬に、その手を添える。
冷気。
だが、確かに、指が触れる。
ジュリアンは目を見開いた。
「ど……どうして……僕に触れられるの? 死者は生者に触れられないってミサゴは――」
「ジュリアン。好きよ」
ジュリアンの呼吸が止まる。
「ずっと好き。家族になれるのを、ずっと……ずっと楽しみにしてたの」
水色の瞳に涙が溜まる。
「あなたも……そうでしょう?」
震えた声。
涙が、落ちる。
クラリッサはその冷えた手を彼の肩にのせた。
背伸びをする。
顔を寄せる。
口づけをされそうになり、ジュリアンは逃げるように強く瞳を伏せた。
雨の音。
一瞬、ざぁっ……と、強くなった。
途端に、肩に触れていた冷気が、失われる。
ジュリアンはゆっくりと目を開けた。
テーブルの上のランプの火が、揺れている。
誰もいない部屋。
浅い自分の呼吸が響く。
彼は、その場に崩れ落ちるように、しゃがみ込んだ。
額を手でおさえる。
その手は、ひどく震えていた。
「……どうして?」
つぶやきは、雨音にかき消される。
ランプの火。
それが、大きく揺れた。




