十七、風が吹く
まだ夜が明けきらないその時間。
ミサゴが邸宅に戻ってくると、玄関扉の前にアゲハが立っていた。
彼はシルクハットを頭から取りながら、彼女に近づく。玄関横のランプの火が鈍く揺れ、アゲハの黒髪は、朝露でしっとりと濡れていた。
「アゲハ。どうした。ベアトリスに何かあったか?」
アゲハは無言でミサゴに手を差し出す。その上にはジュリアンがベアトリスに贈った守り石が乗せられていた。
アゲハの手は、ひどく震えている。
ミサゴは守り石を指先で摘みあげた。
ランプにかざし、彼は眉をかすかに寄せた。
「……ヒビが入っているな。あれ以来、赤髪の少女は?」
アゲハは首を振る。
大きな金茶の瞳は潤み、ランプの明かりを滲ませていた。
「……見てないです」
「アオサギはなんと?」
「気配はある。だけど、害意はないと……言ってたんですけど」
「ヒビが入ったのはいつだ?」
「分かりません。奥様がずっと身につけていらっしゃいますから……。アフタヌーンドレスからティーガウンにお召し替えされた時にはもう……そうなっていました。
でも……奥様がご就寝になるまでお預かりするのは気が引けて……すぐに報告できなくて……」
「いや。よく気づいた。ヒビが入ったのは少なくとも、昨日の午後か」
手の中の石を見下ろし、彼は一度それを握り締める。
「まだ力は残っている。もうしばらくベアトリスに持たせておいてくれ。俺からも、何か守護になるようなものを用意する」
アゲハの眉がぴょんと上がった。
「で、では! 黒いものを」
「え……? しかし、ベアトリスが身につけるならもう少し色味のきれいなもののほうが――」
「奥様はこれがお気に入りなんですぅ!」
ミサゴは守り石をアゲハに戻すと、自ら扉を開け、邸宅内に入る。
中で待っていたアオサギにシルクハットと杖を渡すと、そのまま執務室に向かって歩き出した。
「……なぜだ? 彼女にはもっと澄んだ色が似合うのに……」
「旦那様、わからないんですか?」
ミサゴは無表情のまま肩をすくめる。
「旦那様のお色味だからですよ。
化け狐からの贈り物だとしても、黒いアクセサリーを身につけられるのが嬉しいんですって! 愛されてますねぇ!」
ミサゴが足を止め、アゲハを振り返った。
眉をかすかに寄せて彼女を見つめると、またすぐに前を向いて歩き出す。
「……贈るなら……やはり水色にする」
「えぇ~!?」
「アゲハ。奥様はお休みなのです。静かになさい」
アオサギに叱られ、アゲハは小さく舌を出す。ミサゴは手袋をしたままの片手で、口元をそっと覆った。
わずかにその耳は赤くなっていたが、暗い邸内でそれに気づいた者はいなかった。
◇
ジュリアンに手を引かれながら、マーガレットは王城の庭園を歩いていた。
二人は、以前も歩いた池に差し掛かる。
橋の上で立ち止まり、並んで池を見下ろした。
「今日は、ハンカチはないの?」
ジュリアンが眉を上げて愉快そうに言うと、マーガレットは逆に眉を下げる。
「刺してはいたんですけど……間に合いませんでした」
彼が声を上げて笑った。
水面に波紋が広がる。
「今は何を刺しているの?」
「先日いただいた秋薔薇を……」
「薔薇って難しそうだけど」
「侍女が言うには、花弁が細くて多いほうが多少歪んでも気にならないと……。でもやはり何か変で……やり直しているのです」
「下手なんじゃなくて、こだわりが強いってこと?」
ジュリアンが後ろの方で控えているマーガレットの侍女に視線をやると、彼女はそっと視線を外した。
「……下手なんだ」
「えぇ、下手なんです」
ジュリアンは彼女の手から自分の手を引くと、そっと肘を差し出した。
マーガレットが顔を上げる。
「こっちの方が、近い。だめかな」
彼女の翡翠の瞳が、少しだけ揺れた。マーガレットはレースの手袋をはめた手を、そっとジュリアンの腕に添える。
「僕はさ、立場的に友人て、ほとんどいないんだ」
彼が歩き出し、マーガレットもそれに寄り添う。
「ミサゴ・ブラックソーン伯爵という男がいるんだ。まぁ……訳あって王家としては彼を放っておけなくてね。たびたび彼のところに僕は足を運んでいたんだけど……」
ジュリアンがマーガレットの方を向くと、視線が合った。
「普通にいいやつなんだ。今度一緒に彼の邸宅に行こうよ。ブラックソーン夫人も、穏やかで優しそうな人だよ。マーガレットとも気が合うんじゃないかな」
「……私がお邪魔しても、よろしいのですか?」
「うん。君なら……」
「……では、ぜひ御一緒したいです」
ジュリアンが微笑む。
マーガレットも、釣られるようにして、微笑んだ。
だが、二人が前を向いたとき、同時に足を止める。
小路の先。
赤髪の少女。
ジュリアンの顔から、血の気が引く。
「……クラリッサ?」
ぽつりと落とされた、言葉。
マーガレットは驚いたように隣の彼を見上げた。
少女の大きな瞳。
ぽつりと、一筋、涙が落ちる。
ジュリアンの肩が震えた。
「殿下? あの少女は……」
ジュリアンの呼吸が浅くなっている。
瞳は見開かれ、吸い寄せられるかのように少女を見つめていた。
少女の薔薇の蕾のような唇が、ゆっくりと動く。
「どうして……」
「クラリッサ……これは……」
ジュリアンの声は、震えていた。
風が吹く。
葉が、舞う。
少女がジュリアンの方へと駆け出した。
思わずマーガレットは彼を庇うように前に出て、腕を広げた。
「この方に近づいてはなりません!」
少女はマーガレットに向かって手を伸ばし――
だが、その姿は、空気に溶けるようにして消えた。
短い呼吸が落ちる。
マーガレットは急いでジュリアンを振り返った。
彼は顔を青ざめさせたまま。
視線はいまだ、少女がいた小路の上。
「……ご……ごめん」
「殿下」
彼は震える手を持ち上げ、握りしめると、また下に落とした。
小さく首を振る。
「君を……前に立たせてしまった……」
「殿下。いいのです」
オズワルドとマーガレットの侍女が彼らに駆け寄った。
「殿下を、少し休ませて差し上げて」
「マーガレット……僕は」
彼女はしっかりと首を振ると、ジュリアンの琥珀の瞳をまっすぐに見つめる。
「休まれた方が、良いと思います」
オズワルドに腕を引かれながらも、ジュリアンはマーガレットに向かって手を伸ばした。彼女はその指先にそっと触れ、微笑んで見せる。
「また、参ります。雑談をしましょうね。殿下」
ジュリアンは痛みをこらえるように目を細めると、頷いた。彼女に背を向け、オズワルドに支えられるようにして歩き出す。
マーガレットは静かにその背を見送った。
体の前で指を強く組み、呼吸を整える。
侍女を連れて、彼女も、踵を返した。
木立から二人を見ていた双子は、目を見開いて顔を見合わせた。
「見た?」
「見た」
「……これは……ミサゴ案件では?」
「ミサゴ案件だけど……」
二人の顔が曇る。
「あの人……なんか怖いのよね」
「あの邸宅も、変な感じがして苦手」
「でも、呼び出したところで絶対来ないわ」
「“黄泉の案内人”だもん。来ないよ、絶対」
二人のため息が重なる。
ヴィオラとセオドアが顔を上げると、静かに歩いていくマーガレットの姿。
「お兄様には、幸せになってほしい」
「ここで、立ち止まって欲しくない」
双子は、また、揃ってため息を吐いた。




