十五、少女
まっすぐに伸びる石畳。
並んだガス灯は灯らず、そのガラスが昼の鈍い光をかすかに滑らせていた。
馬車が、音を立てて通り過ぎていく。
道の端に道具を広げている靴磨きの青年が、客の老紳士とにこやかに会話していた。
通り沿いに並んだどこかの店舗の扉が開き、澄んだ鈴の音がここまで聞こえてくる。
私は、アゲハと王都の街を歩いていた。彼女は私に日傘を差してくれているが、さほど日差しは強くはない。
「もっと……華やかなものの方がいいのかしら……?」
「えぇ? でも、シラトリも手仕事のハンカチを贈るのは素敵だと言ってましたよ」
「そうよね……。いいわよね……。手堅いわよね……」
胸元に、そっと手を添える。
服の下には、先日殿下がくださった黒瑪瑙のペンダント。返礼品はアオサギがすぐに手配してくれたけれど、何か、手ずからお返しをしたいと思った。
そこで、私の実家、シルヴァミア領の伝統的なレース編みをハンカチの縁に施して贈ろうと考えたのだ。
ジュリアン殿下が本当にご婚約者のマーガレット様を連れていらっしゃるのなら、彼女にもプレゼントできる。
そのために、王都の街で材料を買おうとやってきた。
「……奥様は殿下からの贈り物が気に入ったのですか?」
「え?」
アゲハがじっとりとした視線で私を見ている。
「……気に入ったのだけど……」
彼女の頬が膨らむ。
「旦那様ではなくて、化け狐からの贈り物ですよ?」
「殿下をそんな呼び方してはいけませんよ」
ますます彼女の頬が膨らむ。
「アゲハは……殿下が苦手なの?」
「嫌いなんですぅ! 乙女を食糧庫に閉じ込めるような人間ですよ!? 好きになれます!?」
「……そんな事もあったわね」
また、胸元に触れた。
「色が、旦那様のお色味だから……嬉しくて……。
女性だと……黒のアクセサリーってなかなか持てないでしょう?」
途端にアゲハの頬が赤らむ。
彼女は日傘を持ったまま私の腕に抱きついてきた。
「だったらいいです! あぁ、良かったぁ!
奥様を化け狐に取られちゃったらどうしようかと!」
「そ、そんなことあるわけないでしょう!?
あんなでも天上人なのよ!?」
「奥様も化け狐のこと“あんな”人だと思ってらっしゃるんですね。ふふ。
アゲハも旦那様の方が百倍好きです。
格好良くて優しくて素晴らしいご主人様です。お二人が仲良しだと私も幸せです」
私はため息をつくと、腕に引っ付いているアゲハの黒髪の頭をそっと撫でた。彼女は大きな金茶の瞳を細め、心地よさそうにしている。
――アゲハ蝶というより、猫みたいよね……。
やがて、通り沿いに大きなガラス窓がある手芸用品店にたどり着き、私たちはそこへ入って行った。
買い物を終えると荷物をアゲハが持ってくれ、二人で店の外へ出る。
私は、ふと顔を上げた。
霧が濃くなっている。
石畳の道。その奥はほとんど見えない。並木のニレの葉に、霧の水滴がついていた。それはほとんど光を返さず、ふっと影に沈む。
――静かだわ。
いつもなら、ひっきりなしに通り過ぎる馬車が一台もいない。おしゃべり好きなご婦人たちも、足早に歩く紳士たちも。
「ねぇ」
声をかけられ、少しだけ視線を下げる。思わず、驚いて一歩引いてしまった。
目の前にいたのは――少女。
蜂蜜に赤を垂らしたような華やかな赤髪を背におろしている彼女は、大きな水色の瞳を細めて私を見つめる。
「……どうしてあなたなの?」
「……え?」
アゲハが私の前に出た。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
いつもののんびりとした表情とは違う。アゲハは静かに少女を見下ろした。
「ごめんなさいね。使用人のあなたじゃないの。金髪のあなたと話したいの」
「私?」
思わず、胸の前に手を置く。
「なぜ……?」
彼女はアゲハの奥にいる私に手を伸ばした。
だが――
弾かれたように手を引く。
少女は目を見開き、その指先を見つめた。
そして、ゆっくりと私を見据えた。
奥歯を噛み、私の全身を確かめるように見る。
「そう。あなたが……」
私は眉を寄せる。
少女はそれ以上何も言わず、ドレスの裾を揺らして背を向けた。向こうへと、歩き出す。
その姿は、霧にゆっくりと飲み込まれていった。
やがて、向こうから馬車の音。
日傘を差したご婦人たち。
ポケットから懐中時計を取り出し、慌ただしく歩く紳士。
靴磨きの少年の声。
どこかの扉が開け閉めされる音。
「今の女の子は……」
私がアゲハを見ると、彼女は黙ったまま唇を噛んでいた。アゲハは振り返り、私の腕を引く。
「急いで邸宅に戻りましょう」
「え? えぇ……わかったわ」
「……旦那様にご報告しなければ」
「アゲハ?」
私はアゲハに引かれるままに、馬車の預かり場に向かった。
邸宅に着くまで、アゲハはひと言も私に口を利かなかった。何かを考えるように、静かに口をつぐんだまま。
私は理由もわからず、ただ彼女の隣にいた。
◇
夜。
ジュリアンは夜着姿で寝室のソファにだらしなくもたれていた。
「殿下。私はそろそろ下がりますが……」
オズワルドが彼の脇に立ち、ジュリアンの琥珀の瞳を見下ろす。
「あぁ……寝るか」
ジュリアンは身を起こすと、革のスリッパに足を入れて立ち上がる。ベッドへ移動しながら、にこりと笑った。
「今日は子守唄は歌ってくれないの?」
「歌ったことありませんよね」
ジュリアンは声を立てて笑う。
「そうだった」
王太子がベッドの端に腰掛けると、オズワルドはそのサイドテーブルに燭台を移動させた。
「消しますか」
「いいよ。そのままで。それくらい自分でできる」
オズワルドは一礼すると、扉に向かう。
「明日は会議だらけなんだっけ。いつ行こうかなぁ」
従者は眉を寄せた。
「ミサゴ様のところへ行く時間はありませんからね」
「オズ……。時間はね、作り出すものなんだよ」
「明日は会議で予定が詰まっていますからね。行けませんからね」
「なんとかなるって」
「なんともなりませんよ!」
「じゃ、おやすみ。オズぅ」
オズワルドは一度ジュリアンの方に体を向けると、また深く頭を下げた。そして、静かに退室していく。
ジュリアンはふと胸に手を当て、小さく口を開けた。つけっぱなしだった金鎖を外しながら、ベッドを降り、窓に寄る。指先でカーテンを払うと、それを月光にかざすようにして見た。
「……外さなきゃな」
傾けると、中に入った小さな塊がころりと向きを変える。
「こんなに小さかったんだ」
彼の口元が、少しだけ緩んだ。
瞳を伏せ、ガラス窓に頭を預ける。ひやりと冷えて心地よかった。
ゆったりと瞳を開ければ、自分の琥珀の瞳が映り込む。
だが――彼の肩が一瞬震える。
ガラス窓。
指先を添わせる。
――窓に映っている、少女。
彼は眉を寄せ、ゆっくりと振り返った。
部屋の明かりは、ベッドのサイドテーブルに置かれた燭台のみ。
静かに佇む、ソファセットと天蓋付きのベッド。
あるのは、それだけ。
火が、ゆらりと揺れる。
ジュリアンはもう一度、ガラス窓を見た。
映っているのは、自分だけ。
ペンダントを握り込み、彼は息を飲んだ。
「……クラリッサ?」
ジュリアンは首を振る。
「……まさかね」
また、火がふっと揺れた。
彼は金鎖を首にかけ直すと、ベッドに戻った。天蓋の布は引かず、そのまま横になる。
そして、目を閉じた。




