十四、魔除け石の奥
ジュリアンは黒革のソファの背もたれに、頭を預けた。
ブラックソーン伯邸の執務室。
相変わらずカーテンさえ無い部屋は、妙なほどに広々としていた。
擦り切れのある絨毯は、昼の光を吸うように静かに横たわっている。その上に並べられている黒革のソファセットにはほとんどジュリアンしか座ったことがなく、未だに座面は硬かった。
アオサギが王太子の前のローテーブルに、紅茶の入ったカップを静かに置く。
「そういえば、“新婚旅行”には行ったのか?
君が休んだ様子はないんだけど」
だらしなく座っているジュリアンの向かいにミサゴも腰掛けると、彼を静かに見た。
部屋から出るつもりはないのか、ミサゴの服装は高襟のシャツに灰色のニットジャケットを合わせただけの楽な服装だった。きちんとよそ行きの服装をしている王太子と並ぶと明らかに浮く。
「日帰りで行った。王都郊外の湖に」
「へぇ。あの近くに休憩施設があっただろう?
そこのカフェの甘味は案外絶品だ。湖は見ずにあそこを目的に行く貴族もいるらしい。
行った?」
「行かなかった」
「じゃあ、また行くといい。
フルーツの砂糖漬けか何かの小瓶を土産に持たせてくれるらしい。それを僕にくれ」
ミサゴは眉をかすかに歪ませる。
ジュリアンは背もたれに頭を預けたまま、天井の梁を見つめていた。
「自分で行けばいい。
それか、王子なんだから“箱で寄越せ”と言えば贈ってくれるんじゃないか?
向こうも“王家御用達”と名乗れて互いに利がある」
「ミサゴがそういう政治的なことを言うのは珍しいな。
僕はね、そういう傲慢王太子にはなりたくないんだよ」
「俺に小瓶を寄越せというのは“傲慢”じゃないのか」
ジュリアンが頭を起こす。
「僕たち、友達だろう?」
「友達? いつからだ?」
王太子がわざとらしく目を見開くも、ミサゴは表情を変えずにそれを見つめ返すだけ。
ジュリアンは大きくため息を吐くと、また背もたれに頭を預けた。
「あぁ……やれやれ。で、湖はどうだった?
実は行ったことないんだ」
「湖を囲うように作られた小路は、人の手が入っていて歩きやすかった。湖もさほどは大きくないが、景色は良かった」
「ふぅん。夫人はやはり湖とか、その手のものが好きなのかな。
彼女はレイク・ヴェスパーの娘だから」
「親しみは抱いているようだったが……」
「“が”? 何か問題が?」
再度ジュリアンが頭を上げると、ミサゴは視線を下げていた。膝のうえで組まれた指には、わずかに力が込められている。
「俺はもう、あの湖に彼女を連れていくことはないだろう。
欲を言えば、シルヴァミア領にだって帰したくない」
ジュリアンは席を立つと、テーブルを回り込んでミサゴの隣に座り直した。表情を変えないミサゴの顔を覗き込む。
「……なぜ?」
調度品も少なく、影も少ない部屋。
だが、黒革のソファの足元には鈍い影が蹲っているようだった。
「ベアトリスは、水に惹かれてしまう」
「そうか……」
壁に視線を巡らせたジュリアンは、ハッとしたように一瞬だけ口を開けると、自分のクラヴァットを緩め、高襟シャツのボタンを少しだけ外した。
首元から、金鎖を引っ張り出す。
それについていた黒瑪瑙の飾りを指先で摘んでみせた。
「これ、大親友であるミサゴ君に下賜してあげよう」
ミサゴの視線がゆっくりとそれに向く。
「魔除け石か……」
「そう」
ジュリアンは鎖を首から取ると、黒い飾りだけ抜き取り、テーブルに置く。その鎖にはもう一つ、ペンダントトップがつけられていたが、それはそのまま、彼は首に鎖を戻した。
「これは、王族の人間が伝統的に持ち歩くようにしているものなんだよ。
この黒瑪瑙が魔除けを行なった際は、身代わりとなって割れると聞いた。
僕も実はこれは、二個めなんだ。割れやすいのか、王族が狙われやすいのかは分からないけど。
あの世の者に対する効果のほどは僕にはまったくわからない。
だが――」
ジュリアンは黒瑪瑙の飾りを持ち上げ、ミサゴに裏返して見せる。
そこには、双剣とその上にとまる梟の紋様。
「地金部分に王家の紋章が彫られているだろう?
対人間としても、きっと役に立つ。
王家が後ろにいると分かれば、下手なものは手出しできない。
君の愛しの夫人に、どうかな」
「そんなもの……いいのか?」
「いいよ。僕個人からの遅めの結婚祝いだ」
ミサゴが手のひらを出すと、ジュリアンは黒瑪瑙をその上に置いた。
だが、黒瑪瑙そっくりなミサゴの瞳は、ジュリアンの胸元に向く。
「……何?」
「もう一つ、飾りがついていただろう? それは?」
ジュリアンは自分の胸元に手を添え、それからもう一度金鎖を引き出す。
金のペンダント。
透かし彫りがなされ、中に入っているものがわずかに覗いていた。
王太子は、それを指先で摘む。
「……これのこと?」
「そう……」
彼は肩をすくめると、また服の中に戻した。
「いろんな意味で、これも外さないといけないな……とは思ってる」
シャツのボタンを自分で留めていると、アオサギが彼のそばに寄り、一礼してから王太子の前に膝をついてクラヴァットを整え直した。
また一礼して、アオサギがシラトリと共に壁に控える。
ミサゴは、それ以上何も言わずに、ただ、ジュリアンを見つめた。
「クラリッサとの思い出の品なんだ。婚約も内々には整った。マーガレットに失礼だものね」
「しかしそれは……」
ミサゴは口を閉じた。
――だが、断言はできない。
彼は、そっと口元を手で覆った。
その時、ノックの音が部屋に響く。
シラトリが対応に出ると、式神の使用人が扉の向こうに立っていた。
「……時間切れかな。オズが来たんじゃないかなぁ」
「いつも侍従を撒いてくるのはなぜだ。連れてきたらいいだろうに」
ミサゴが先に立ち上がり、ジュリアンも渋々ソファから立ち上がる。
「大親友との僕の大切なプライベート時間だよ。
いいじゃないか、別に」
「俺は殿下の大親友になった覚えはない。
毎度撒かれる侍従の身にもなってみろ」
「またまた! 照れるなって」
ジュリアンが強かにミサゴの背を叩いた。開いた扉の隙間から「殿下! 戻りますよ!」とオズワルドの声が聞こえてくる。
「オズ……もしかして玄関ホールから叫んでるのかな。躾がなってないな」
「主人が主人なら、従者も従者だな。早く行ってやれ」
ジュリアンは声を立てて笑いながら扉に向かう。古びた絨毯しか敷かれていない部屋は、歩くたびに足音を響かせた。
「愛してるよ! 大親友! じゃあね」
ジュリアンは投げキッスをして、扉の向こうに消えていく。
扉が閉まる。
扉が閉まってもなお、ジュリアンとオズの声が向こうから聞こえてきていた。
ミサゴはその向こうを、静かに見据えた。
「アオサギ」
低められた声。
呼ばれたアオサギは、ゆっくりとミサゴに近づいた。
「式神をひとつ、殿下につけておけ。あのペンダント……妙な気配がある」
「御意」
窓の向こう。
ブラックソーン伯邸は、晴れている。
だが、その奥にある王都の街並みは、今日も霧に包まれていた。




