第4話 ナイト②
気がつくと僕は、机に突っ伏し、シャーペンを握ったまま寝ていた。
目の前にある白い長方形のデジタル置き時計を見る。
19:36を表示していた。
開いているコクヨの方眼ノートにヨダレの染みができていて、慌ててテッシュで軽く叩く。
文字がじゅじゅんで既に手遅れだった。
「なんだっけ。何があったんだっけ……」
ボーッとする頭で考えを巡らす。
「あ……、富久先生が、梶山幸さんを防災部に勧誘していたような」
左手で額と目を覆い、机に肩肘をつく。
「あのポンコツ教師め。まだ何も準備できてないのに」
僕は深いため息を吐いた。
「サウナでも行こ」
机から勢いよく立ち上がる。
握りしめ、小さくなったテッシュを机脇のゴミ箱に捨てる。
僕は身支度を整え、部屋を出た。
愛媛県はジブリ映画『千と千尋の神隠し』のモデルの一つと、公式に明言されている日本最古と言われる道後温泉が全国的に有名だ。
夏目漱石の『坊っちゃん』の舞台になった温泉である。
金沢市の実家から家族が来ると、道後温泉街にあるホテルに宿泊する。
マリカさんと一緒に、道後温泉本館の三階個室でゆっくりしたり、商店街で食べ歩きをする。
兄たちが大学生になった今は、家族で母の実家のある愛媛県に来ることもめっきりなくなった。
マリカさんと僕の休日前夜に温泉へ行くとなると、おしゃれで広いスーパー銭湯タイプだ。
天然温泉のスーパー銭湯が松山市にいくつかあり、浜温町にもホテルと併設の素敵な温泉施設があり、日帰り入浴で、とてもリフレッシュできるけど、高校生の僕からすると千円台前半の入浴料は高い。
都会のスーパー銭湯は、温泉でなくとも、二千円以上するので、それでも安いのだが、近所には、浜温町が民間企業に委託している「はもん温泉」がある。
館内に、こぢんまりとした最新マシーンが導入されているジムエリアや小さい温水プールや食堂や売店コーナーがあり、大浴場や露天風呂やサウナまであって、全て入浴料500円で使用することができる。
とろみのあるナトリウム炭酸水素塩泉で、美肌効果があると思う。
僕の経験上、明らかに、ねんざや突き指の治りも早いと思う。
僕は、お得な5000円の回数券11枚綴りを二ヶ月で使い切るペースだ。
久しぶりに、自転車を10分漕いでやって来た。
なぜ、宿題の途中で、サウナに入りに来たかって?
理由は爆睡できるからだ。
夢も見ないぐらいに。
見てるのかも知れないけれど、覚えてないぐらい短いか、深い眠りに集中しているのかも知れない。
富久先生の夢を見たくなかった。
イライラする。
ヲタクな見た目で、だいたいのポンコツ私生活は想像していた。
が、想像を絶するダメ人間ぶりであった。
よくもまあ教師になれたものだ。
好きなことにはIQ200になるのか歴史には異常に詳しい。
学校の図書館の本を全部読破しているという噂もある。
まず、部屋がゴミ屋敷手前の汚部屋だ。
僕からすると十分、ゴミ屋敷だが、僕も聞いたが、お母さんが何度も口酸っぱく、食べ物や飲み物を富久先生の部屋には持ち込み禁止にしてあるので、ゴキブリやネズミやウジ虫達と共生してはいない。
本や書類や服や雑貨などが、フローリングの上や机の上に幾層にも積み上げられていて、まるで豪雪地帯のように、ドアから、ベッドまでの道が開けられている。
お父さんが亡くなってから、お母さんが鬱病を発症したようで、薬を服用するようになり、パートを辞めたため、最近は、リビングまで、富久先生のリュックや小物が侵食している。
乾燥機から出てきた清潔な服は、アイロンがけどころか、畳まれずに、リビングのソファに置かれている。
ダイニングテーブルの上には、新聞や郵送物などが高積みされていて、椅子には三着ぐらい上着がかかっている。
お母さんが、鬱病であるとは言え、キッチンやお風呂掃除は最低限するようで、悪臭まではしない。
富久先生は、朝ごはんも食べずにギリギリまで寝ているぐらい、自分の世話さえできないが、ナイト君の散歩やトリミング通いやグルーミングや排泄物の処理はしている。
そして、この汚部屋と、もう一つの大きな欠点がある。
大借金である。
これがなければ、好きなことで教職なのだから、素晴らしい人生ではないか。
同じチー牛でも就職氷河期世代の40代後半の三宅教頭とは偉い違いである。
お金持ちが人生の目標になっては寂しいが、手取り20万円台なのに、億り人だと言う噂がある。
富久先生のNーBOXよりもさらに高コストパフォーマンスのミライースに10年以上乗っている。
先生によってはスポーツカーに乗っている人もいれば、だいたいがファミリー向けの高級ミニバンが多い。
平日は、奥さんが、高級ミニバンの方に乗り、自分の通勤や子どもさんの病院や塾への送り迎えをし、旦那さんの方が、セカンドカーである軽ハイトワゴンに乗ってくるケースが多いのではないかと思う。
話が逸れてしまった。
富久先生の大欠点である大借金。
多分、現金が足りない時のキャッシングや推し活やネットのショッピングのクレジットカードをリボ払いにしているのが原因だと思う。
どんぶり勘定で、どんどん金額が大きくなり、借金で借金を返し、気付いた頃には、雪だるま式に膨らんだのであろう。
僕は、この五ヶ月、ナイト君になっている時に、スマホを操作する富久先生の画面を必死で見た。
僕は銀行口座は、北國銀行、ゆうちょの二つだが、富久先生は、五つぐらい口座があるようで、銀行アプリによって、それぞれ認証が違っていて面白い。
Googleアカウントにパスワードを保存し、顔認証で入る銀行もあれば、四ケタのパスコード、六ケタのパスコードの銀行もある。
ネット系の銀行に至っては、数字画面が一定ではなくランダム表示される上で、パスコードが六ケタのアプリもある。
それにしても、こんなにだらしない富久先生なのに、公務員だからだろうか。
銀行は富久先生に多額のお金を貸し過ぎだ。
ファイナンシャルプランナーであれば、家を売って生活改善を提案をするかもしれない。
たぶん、食費や日用品がいくらかかっているかもわかっていない。
ハイブランドを持っていたり、高級車に乗っていたり、ギャンブルにハマっているわけでもない。
派手さはないので、周りも自分自身も、お金にルーズな自覚がないのだろう。
しかし細々したものの毎日の積み重ねは怖い。
富久先生は、スーパーでお惣菜やお刺身やスナック菓子や甘い飲み物をよく買う。
学校帰りにコンビニに寄って、お母さんと自分用のコーヒーやヨーグルトやアイスやシュークリームなどを毎日のように買う。
僕の計算では、食費が、月10万円を超えているのではないかという見立てだ。
もしかすると本人は月2万円ぐらいに思っているんじゃないかと思う。
支払いは、クレジットカード連携させたバーコード決済でするものだから、さらに借金は大きくなり、リボ地獄に陥る。
僕にとっては人生教訓になってありがたいが、部活新設の承認審査に通るためには、顧問として相応しい人物でないといけない。
ホテルのトイレットペーパーを盗むようでは困る。
富久先生が推し活で大阪へ行く一ヶ月程前の深夜、おでかけネットで予約をしていた。
ナイト君になっていた僕はスマホを覗き込む。
富久先生の予約する新幹線や特急の時刻を僕は何度も脳内で唱えて記憶する。
僕は、金沢の法事からの帰りを、関西から飛行機ではなく、新幹線を選んだ。
現実で、ちゃんと同じ便になれて会えたら、同じ浜温町に住む富久先生と、マリカさんで一緒に帰ろうと思った。
「防災部の顧問になってほしい! 」とスカウトするために。
僕の法事の当日で、富久先生のライブの当日の夜、僕は金沢の家で、早めに寝た。
すると、ホテルにいるらしき富久先生のコルセットになっていて、部屋に放られているようだった。
シャワーの音が止み、ドアが開き、部屋に富久先生が入ってきて、ブツクサ言っている。
「これぐらいいいよな。明日、帰ってからトイレットペーパー買いに行くの面倒くさいし」
ガサガサと音がする。
リュックの物を出し入れするような音がする。
「大学生の頃、浴衣持って帰ったやつもいたもんな」
僕は嫌な予感がした。
思い込みかもしれないが、ホテルのトイレットペーパーを持って帰ってるんじゃなかろうか。
僕なら衛生的に無理だ、と思ったが、問題は、そこではない。
通常使用以上の使用や持ち帰りは当然、法的に犯罪だろう。
声が出せず、動けないコルセットなのがもどかしく感じた。
僕は、だいぶ手遅れだが、翌日に、新大阪駅で待ち伏せしようと心に決めた。
これが、あの日の経緯だ。
僕は、大浴場の洗い場で、ざっと頭と体を洗う。
グレー色のサウナハットとオレンジ色のマイサウナマットを手に、ドライサウナに入る。
6〜8人用のサウナの先客は、80歳前後のおじいちゃん。
僕は、サウナで秒針が一周する12分で出て、シャワーで汗を流し、水風呂に1、2分浸かり、露天風呂にあるサンラウンジャーで外気浴10分を1セットを2回繰り返す。
できれば3セットが理想だが、勉強時間が、もったいないし、帰りが遅くなる。
サウナでは何も考えずに12分過ごす。
パソコンやスマホでたくさん立ち上げてしまったウインドウを閉じるように、脳みそでカオスになっているタスクの×を押してゆく。
サウナを出て、シャワーで汗を流す。
水風呂に入るのには冷たさに耐えられるか勇気がいるが、小学生の頃のプールを思い出し、徐々に、身体の遠くから水をかけ、心臓マッサージをするように、胸を叩きながら、水風呂へと屈んでいく。
全身から悲鳴を上げるように鳥肌が立ち、乗り越えて肩まで浸かることができると、極上の快楽が待っている。
プロ野球のピッチャーがベンチで肩にアイシングをしているのを思い浮かべて、自分の筋肉もアイシングされていると感じる。
頭の先からつま先まで90度以上の熱さに包まれたあと、15度の冷水の中に入るのだから、あまりの強刺激に交感神経は興奮しまくって当たり前だ。
120秒数えてから、水風呂から上がり、大浴場出入り口の棚に置いてあるタオルで水滴を拭いてから、露天風呂へと出る。
意外にも、四国の田舎の庶民的な温泉施設なのに、海外のリゾートかと思うような場違いな高品質のサンラウンジャーが置いてある。
セルジュ・フェラーリー社の開発した弾性繊維「バティライン」を使用したメッシュ生地の「SEパシフィックサンラウンジャー」だそうだ。
すごく寝心地がいい。
露天風呂の塀の外には桜の木が何本も植えてあり、その上に、夜空が見える。
今夜は月が雲に隠れて、空が暗い。
目を閉じる。
夜風が頬や太ももの表面を吹き抜ける。
富久先生のことを考えたくなくて、サウナに入りに来たのに、思い浮かべてしまう。
富久先生のいいところ。
ナイト君をきちんと育ているところ。
あと……無いな。
うーん。
あ……、ふと思い出した。
富久先生の家のお隣さん。
2026年3月3日の皆既月食の日、宿題をしながら寝てしまったらしい僕は、ナイト君になって、富久先生とベランダから観測をした。
お隣の女性もベランダから見ていた。
久しぶりに会ったらしく、富久先生は、挨拶を交わしていた。
どうやら小中学校の同級生らしい。
日本人形のような切れ長の目をした顔立ちの細身の女性で、首が長く、美しい横顔をしていた。
観測が終わった後、一階で、富久先生とお母さんが夜ご飯を食べていると、どうやらあの女性の話をしているようだった。
中学生の頃から不登校で引きこもっているらしく、高校は通信制だったらしい。
今も勤めに出ている様子がないと、お母さんの言い方から、少し軽蔑めいた印象を受けた。
その時、富久先生は同調しなかった。
ここだと思った。
僕が、一年の時から富久先生の授業を受けていて感じること。
ナイト君やコルセットになって、百年の恋も冷める級の失望を味わっても、嫌いになれない確固たるもの。
きっと僕に足りないもの。
誰に対しても見下さないところではないだろうか。
お隣さんに特別な感情があるわけでもなさそうだった。
そう、富久先生は、誰に対しても、見下さない。
この一年の言動の端々で感じて来た。
僕は、人を見下す人が大っ嫌いだ。
たぶん、母親が父の両親や姉、つまり父方の祖父母や伯母から見下されていると、肌で感じて育ってきたからだ。
三男の僕が、中学校受験に失敗した時、強く自己嫌悪に陥った。
僕が母親に似たから、二人の兄ほどには頭が良くないと思われて来たのに、とうとう中学受験にも失敗してしまった。
心が壊れてしまった僕は、小学校の卒業式の後、家出をして、愛媛のおじいちゃんやマリカさんの元に行った。
3月の間に、両親に懇願して、こちらの浜温町の町立中学校に通わせてもらうことで決着した。
僕は、街灯があまりない浜温町の暗闇の中、自転車を走らせる。
家のある西へと坂道を下りながら、目の前の薄墨色の夜空には、金星が浮かんでいた。




