3 夜のぬくもり
三草山へ向かう前夜。
戦への不安に眠れぬ師盛のもとを、思いがけない訪問者が訪れる。
そして、その夜――
師盛は初めて、自分の胸の内にある想いの正体に気づく。
その夜、師盛は床の中で、自分のふがいなさに歯がみしていた。
院の策謀も見抜けず、京に帰れるかと簡単に喜んでしまう幼さ。
戦は教経に任せておけばいいと考える、他人任せな態度。
軍議に出ても何一つまともなことは言えず、おろおろするだけ。
こんな自分に、知盛が愛想を尽かすのは当たり前だ。信頼など、得られるはずもない。おそらく、一人の男としてさえ、認めてはもらえていない。
師盛もなかなかやる……と言ってもらえるためには、三草で手柄を立てるしかない。しかし、戦など一度もしたことがない。初陣で手柄を立てられれば、それこそ名誉挽回できるが……はたして、自分に出来るのだろうか……。
悶々と考えながらも、いつの間にかうとうととしていたらしい。そんな師盛の眠りを破ったのは、唇に重ねられた温かい感触だった。
息苦しさに目覚め、自分の上に覆い被さっているものをどかそうとして伸ばした手の中には、長い髪があった。
それと同時に、焚きしめられた香の匂い。
力を込めて引き離して、暗闇の中をのぞき込む。師盛の手の中の身体は、かすかに震えている。
「まさか……! 香子……どの?」
「師盛さま」
香子は、師盛の胸に身体を投げかけてきた。
「明日、御出陣とうかがいました。お願いです。せめて、今宵一夜」
「何をばかなことを……」
胸から、香子の身体を引き剥がす。
不愉快だった。相手の気持ちも考えずに自分の感情をぶつけてくる香子も、そして、やっと訪れた眠りを破られたことも。
「師盛さま」
もう一度投げかけてくる身体を途中で止めた。
「お帰りください。明日は早いのです」
「それは……申し訳ないと思っています。でも、止められないのです、自分の気持ちが……」
香子の声は、だんだんと涙の色を帯びてくる。
「はしたない……ということは、自分でもよく分かっています。師盛さまには迷惑でしかないことも。でも、抑えられないのです。いつも目は、師盛さまを捜している。一人でいても、誰と一緒にいても、頭の中にいるのは師盛さま……師盛さまの声が聞こえただけで、その日一日幸せになれる……ずっとそばにいてほしいとか、恋人にしていただきたいと望んでいるわけではないのです。せめて、今宵一夜だけでも……」
そうやって泣きながらすがる女を、ふつうの男は『愛おしい』とか『かわいい』とか思うのだろうか。師盛は、ぼんやりとそんなことを考えていた。少なくとも、自分はうっとうしいだけだ。
泣きじゃくる香子に、帰る意志はないらしい。だとすれば、香子から逃れる手はひとつしかない。
師盛は、すっと立ち上がった。
「師盛さま?」
戸惑ったように声をかける香子に何も言わず、几帳をあげる。
「師盛さま、待って」
返事はしなかった。口を開いたら、とんでもない罵りの言葉を言ってしまいそうだったから。
そのまま部屋の外に出た。回廊を一人で歩きながら、夜明けまでどのくらいあるのだろうか……と考えた。明日は出陣だ。出来るなら眠っておいた方がよい。
しかし、香子のいる自分の寝所には戻れない。そのくらいなら、夜明かしした方がましだ。
考えながら歩く回廊の先に、人の姿が見えた。月明かりに浮かぶ黒い影は、明らかに男のものだったが、顔だちまでは分からない。
師盛がそれが誰だか見極める前に、その影は声をかけた。
「師盛か?」
とたんに、師盛の鼓動が速まる。こんな所で会ってしまうとは……常に逢いたいと思っていた人なのに、今は顔を合わせたくない。軍議の席であんなへまをしてしまったのだから。今度顔を合わせるのは、手柄を立ててからでないと……などとも考えていた。
しかし、影は近寄ってくる。
「どうした? こんな夜更けに」
「いえ……」
「明日のことが気がかりで、眠れないか?」
そう言ってのぞき込んだ知盛の目には、軽蔑の色はなかった。我が子を気遣うような優しさに、師盛はようやく楽に呼吸が出来るようになる。
しかし、戦をおそれて眠れないと思われるのは心外だった。だから、言った。
香子の名誉にかかわることだが、自分の名誉と秤に掛けて、自分をとった。もちろん、知盛に口外しないだけの分別があることを知っているからだが。
「そうではありません。寝所に戻れないのです。香子どのが……居座ってしまっていて……」
知盛は一瞬驚いたような顔をし、次にくっくっと笑った。
「……香子も、必死なのだな」
「迷惑です」
「師盛は、香子が嫌いか?」
ふたたび顔をのぞき込まれる。楽になったはずの呼吸が、またしづらくなる。
「嫌いではありませんでした、今までは。ですが、このように無理を押しつけられると……嫌いになってしまうかもしれません」
「嫌いでないのなら、抱いてやればいいものを」
「好きでもない女を抱けません」
思わず大声になってしまっていることに気づき、頬がかっと熱くなる。
知盛は、ふっと微笑んだ。
「師盛らしい言い方だな」
「私らしい?」
「潔癖だ……ということだ。若さゆえなのか、師盛自身の性格のゆえなのか……」
知盛は、顔を上げ、空を見上げた。
「どちらにしろ、うらやましい」
「え?」
意味が分からず問い返したときには、もう知盛は話題を変えてしまっていた。
「しかし、明日を控えているのだから、少しでも眠っておいた方がいいだろう」
「大丈夫です」
「そうはいくまい。七日の矢合わせまで、眠れるとは限らないのだから。自分の寝所に戻れないのなら、私の所に来るとよい」
「え?」
今度の問いかけには、知盛は答えてくれた。
「男二人では狭いかもしれないが、ここで夜明かしするよりはましだろう」
「しかし……」
師盛のためらいを、知盛は勘違いした。
「大丈夫だ。私の所に女が来ることはない。妻は、京に残してきているし」
そういうと、知盛はさっさと自分の寝所に向かう。師盛は、心を決める間もなく知盛の後を追うしかなかった。
「遠慮はするな」
そう言われ、知盛の隣に横になる。こんなに近くで、胸の鼓動に気づかれないかとはらはらしながら。
しかし、知盛は気づかなかったらしい。かわりに、
「軍議の後、ずいぶん浮かない顔をしていたな」
と話しかけてきた。
「……」
なんと答えていいか分からずに黙っていると、知盛は視線は天井に向けたまま続けた。
「おまえ達兄弟をないがしろにしているつもりはなかった。しかし、結果的にそうなってしまったようだ」
知盛が、自分たち兄弟が法要に出られないことを気にしているのだと、ようやく気づいた。
「私たち兄弟がふがいないからだと、分かっていますから」
その中でも一番ふがいないのは自分だ……と感じながら、師盛は言った。
「そんなふうに思ってはいない。いや……違うな。ふがいないのは、おまえひとりに限ったことではない、と思っている。平氏のほとんどの人間が、安閑としすぎている。平和に慣れきって、脆弱になってしまっている。そうでないのは……」
知盛が言いかけて、言いよどんだ名前が誰なのか、すぐに気づいた。
「……月子どの……だけですね?」
その問いに、知盛は苦笑で答える。
「私も、脆弱になってしまっていたことを、今日の軍議で思い知らされました。……三草では、力の限り戦います」
その言葉に、知盛ははじめて師盛の顔を見た。
「私は、師盛を見くびっていたようだな」
「いえ、戦ははじめてですから、どれほどのことが出来るか……自信はありません。ですが、少なくとも兄のように、戦わずして逃げ帰ることだけはしません」
自分から、兄のことを口にする。
維盛の名は、一族の汚点として、今では口にする者もいないと知りながら――。
すると知盛は、師盛の顔をじっと見つめた。
「兄弟とはいえ、維盛と師盛は違う人間なのだから。維盛の失敗を師盛が気に病むことはないのだぞ」
「いえ。間違いを犯しても兄は兄です。兄の汚名を雪ぐのは弟の役目と存じます」
知盛は、軽く目を見開いた。
「やはり、私は師盛を見くびっていたようだ。こんなに……頼れるに足る男だったのに……」
「知盛さま」
「源氏の搦め手は、必ず三草を通る。くい止めてくれ、師盛の力で」
「はい」
明日は早い……もう寝るように、と言って知盛が目をつぶっても、師盛になかなか眠りは訪れなかった。
わずかな隙間しかあいていない隣からは、知盛の体温が伝わってくる。香子とは違う香の匂い。いや、焚きしめた香と知盛自身の匂いが混ざった、知盛だけの香り……耳には、規則正しい知盛の寝息が。
それらの全てが、師盛の安息を乱してしまう。
とても、眠れそうにない……そう思った瞬間に、師盛は香子の言葉を思い出した。
『いつも目は、師盛さまを捜している。一人でいても、誰と一緒にいても、頭の中にいるのは師盛さま……師盛さまの声が聞こえただけで、その日一日幸せになれる』
それは、師盛が知盛に感じている気持ちそのままだ。自分にはそれに加えて『認めてもらいたい』という気持ちもあるが。
その気持ちを『恋』と呼ぶのなら、明らかに自分は知盛に『恋』していることになる。
そう認めることに、不思議と嫌悪感はなかった。おそらく、心はとっくに気づいていたものを、頭が認めるという作業だけだったからだろう。
師盛は大きく息を吸い込んだ。知盛の香りで胸を満たし、彼の寝息に自分の呼吸を合わせた。
こうして、すぐ隣で眠れるのは、おそらく最初で最後だろう。それならば、今のこの瞬間を忘れずに胸におさめておこう。
心は温かいもので満たされ、師盛は静かに眠りに引き込まれていった。
この話は、戦の前夜の小さな出来事から、師盛の心が大きく動く回です。
香子の言葉によって、師盛は自分が知盛に抱いていた想いを「恋」として自覚します。
ここで描きたかったのは、恋に目覚める瞬間というよりも、
「いつもその人を探している」
「その人の声を聞くだけで嬉しい」
「そばにいると幸せ」
――そんな気持ちに、師盛自身が初めて名前を与える瞬間でした。




